orionの自己愛・自己の代替可能性について

社会に出る前にみにつけてほしい能力。 また、学校生活で人間関係・家庭環境などに悩んでいる生徒に読んでもらいたい。
1
orion@大戦 @0rion6157

僕も今日は時間があるので真面目なつぶやきをしよう。今回はこの前ある生徒の相談に乗ったときに話したこと。

2012-05-05 09:13:04
orion@大戦 @0rion6157

僕には一応行動の原則があって、それは「原理原則は自分で決めるということ」と「自分で決めたことには他人に期待しないということ」である。その根底にあるのは、この世界に代替可能でないものは、「自分自身にとっての自分自身」しかないという揺るぎない事実である。

2012-05-05 09:18:25
orion@大戦 @0rion6157

僕という存在は自分自身以外にとっては悲しいかな代替可能な存在でしか無い。だから自分を自分自信で定義する「図をつくる」作業が大切になる。一方で社会で生きていく中で他者との関係性の中で定義される自分「地をつくる」作業も無くてはならない。

2012-05-05 09:24:25
orion@大戦 @0rion6157

自分自身と向き合う時間が無く、また学校という集団社会の中でしか生きていない高校生までの生徒はどうしても「他者との関係性の中での自分」というのが自分のすべてになってしまう。するととてもきつい。その自分はどこまで行っても代替可能な存在でしか無いから。

2012-05-05 09:26:39
orion@大戦 @0rion6157

だから高校を卒業して大学でしなければならないことは、自分の図をつくること。図というが、これは「ねじまき鳥クロニクル」の井戸潜り作業と同じで、他者と切り離して「自分の形が見えなくなって」初めて分かることかもしれない。それが生きていく上での軸になる。

2012-05-05 09:32:36
orion@大戦 @0rion6157

なぜなら、人は自分の生きたいように生きれるから。その人が優しいかどうかはその人の性格ではなく人に優しく生きたいと思っているかどうかがすべてである。自分は自分の行動を思い通りにできる唯一の存在。

2012-05-05 09:35:10
orion@大戦 @0rion6157

その軸の周りに「他者との関係性の中の自分」を肉付けていく。そうすることでより自分が豊かになる。でも本当に大切なのは、それが切り捨てられても自分が抱えるべき軸がそこにはちゃんとのこっているということ。

2012-05-05 09:37:15
orion@大戦 @0rion6157

例えば、家族というのは暖かいものだ。親は子を、子は親を無条件に愛するべきだ。確かにそうかもしれない。でも家族ですら、代替可能な他者なのである。その他者で自分を定義してしまうと、その「べき」がうまく行かなかったときに自分自身そのものが大きく揺らいでしまう。

2012-05-05 09:40:56
orion@大戦 @0rion6157

家族や友人だってただの他人だからどうでもいいよ、ということではない。どうでも良いという人がいたって良いし、いや家族は大切だから愛に満ちているべきだと考える人がいたって良い。大切なのは、「愛に満ちているべきだ」と決めたのは自分であるという認識。

2012-05-05 09:44:09
orion@大戦 @0rion6157

自分で決めたのであれば、自分が愛されるように努力しなければいけない。そして、その結果愛されるかどうかというのは、もはや「他人の問題」。「自分で決める→行動する」までの自分を本当に愛おしく思えるかどうか。

2012-05-05 09:48:31
orion@大戦 @0rion6157

「自分で決める→行動する→結果」までを求める人は、残念ながらいつまでたっても満たされない。行動と結果の間には一連に見えても、自分自身と、代替可能な他者という圧倒的に解消できない壁が存在する。

2012-05-05 09:51:40
orion@大戦 @0rion6157

自己愛というといわゆるナルシストというイメージになってしまうが、実はそのイメージとは逆で、自己愛というのは、かっこいい自分ではなく、みじめな自分を愛おしく可愛く思えること。

2012-05-05 09:56:01
orion@大戦 @0rion6157

自分が代替可能な存在であると思い知ったときに、三角座りをしてうずくまっている自分を「頑張ったね」と頭をなでられるのは自分自身しかいない。それが自己愛。そのためには自分のぶれない軸が必要なのである。

2012-05-05 09:57:30
orion@大戦 @0rion6157

一方で、自分の力ではどうにもならないからこそ他者との関係は素晴らしい。すべての他者からみた自分は代替可能である、という揺るぎない事実があるからこそ、他者に必要とされたときの喜びは「自分で頭をなでる」ときよりも大きくなる。

2012-05-05 10:00:01
orion@大戦 @0rion6157

他者に必要とされたときは嬉しい。心が通じあったときは嬉しい。でもそれは、他者とは「分かり合えないものだ」という前提があるから。そして分かり合えないのは、「(自分からみた)代替できない自分」と(他者からみた)代替可能な他者」という圧倒的な比重の差が存在するから。

2012-05-05 10:11:29
orion@大戦 @0rion6157

自分の思いが通じなかったとき、他者との関係の中で自分が代替可能であると思い知ったとき、そのやるせない気持ちを他者に向けてはいけない。そのときに、そのみじめな自分を愛する自分をあらかじめ作っておきましょう。

2012-05-05 10:15:24