関東軍の歴史に名を残した“関東軍三羽烏(さんばがらす)”
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2012-05-07 10:36:14【関東軍三羽烏】明治時代以降、戦争への道を進んだ旧日本軍にはさまざまな“ユニット”が派生。なかには戦意高揚のために作られた、悲しい歴史を感じさせるものもありました。
2012-05-07 10:42:44【関東軍三羽烏2】今回ご紹介するのは、関東軍の歴史に名を残した“関東軍三羽烏(さんばがらす)”についてです。
2012-05-07 10:42:57【関東軍三羽烏3】関東軍三羽烏(かんとうぐん・さんばがらす)と呼ばれたのは、石原莞爾(いしわら・かんじ)、板垣征四郎(いたがき・せいしろう)、土肥原賢二(どいはら・けんじ)の3人である。
2012-05-07 10:43:47【関東軍三羽烏4】3人とも永田鉄山(ながた・てつざん)ら「陸軍三羽烏(りくぐん・さんばがらす)」が主宰となり、戦争論を講じる二葉会(ふたばかい)の活動に影響を受け、会合に参加した。
2012-05-07 10:44:04【関東軍三羽烏5】日露戦争後、陸軍内では中国本部からの分離独立の思想が高まっていた。石原、板垣はその思想を現実のものとするために初動を推進した。当時、石原は関東軍参謀の中佐、板垣は高級参謀、大佐の地位にあった。
2012-05-07 10:44:29【関東軍三羽烏6】この参謀2人の組み合わせはまさに「名コンビ」であった。板垣は各方面に顔が利き、永田とは同期だったため、中央にも影響力があった。
2012-05-07 10:44:44【関東軍三羽烏7】そんな板垣の部下として、石原は陸軍大学校創立以来といわれた明晰(めいせき)な頭脳を駆使した。
2012-05-07 10:45:00【関東軍三羽烏8】石原は「帝国陸軍の異端児」という異名がつくほどの変わり者で、満蒙(まんもう)の領有は必須と考え、石原は板垣に思想を説き、2人は中国東北の武力占領計画を策定。柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)を起こし、満州事変(まんしゅうじへん)へと繋がる。
2012-05-07 10:45:18【関東軍三羽烏9】土肥原は板垣と同期の軍人で、満州事変では奉天(ほうてん)市長を務めたが、僅かな期間で市長の任を終え、天津(てんしん)へと派遣される。
2012-05-07 10:45:37【関東軍三羽烏10】ここでは特務機関長として、清朝(しんちょう)最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)に日本軍への協力を要請した。清朝の復興を条件に承諾を得た土肥原は、溥儀を満州に連れ出した。
2012-05-07 10:45:55【関東軍三羽烏11】関東軍三羽烏の活躍・暗躍もあり、日本は満州の全土を占領した。その後アメリカとの確執が生まれ、第二次世界大戦が勃発する。
2012-05-07 10:46:19【関東軍三羽烏12】敗戦後、関東軍三羽烏の3人は裁判にかけられ、板垣、土肥原はA級戦犯となって死刑判決を受ける。石原は、病気を理由に戦犯指定されず、板垣や土肥原らをかばう証人となった。
2012-05-07 10:46:40【関東軍三羽烏14】歴史を動かした“ユニット”をもっと見るなら>> http://t.co/WmXEYdC5
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