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巽昌章氏によるミステリー「本格冬の時代」考

1 冬の時代の存否をめぐる議論は、いちおう、「現実離れ」「お化け屋敷」を好むか否かによって左右されるといえる。  2 しかし、単なる趣味の違いですまされないのは、リアリズムへの同調圧力が働いていたのではないかという点である。 3 クローズドサークルや名探偵や連続見立て殺人といった意匠自体が本格の「伝統」だとはいえず、たとえば、新本格によって過去の伝統が作り直されるといった倒錯も生じる。  4 したがって、連綿たる本格の伝統が社会派によって中断され、新本格で復興したなどというのは単純すぎる史観である。 5 また、冬の時代の要因としては、社会派よりも戦後の海外ミステリを手本とした進歩主義の影響が大きい。  続きを読む
書籍 文学 本格冬の時代 巽昌章 ミステリー
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笠井潔 @kiyoshikasai
本格「冬の時代」論は、その時代に本格作品がまったく存在しなかったと主張するなら事実に反する。ただし探偵小説を強引にリアリズム化し、オヤジのエンタメ小説化することで青少年読者を失い、ジャンルとしての活性力が枯渇した事実に注目するなら、正論といえるだろう。
笠井潔 @kiyoshikasai
事実、初期には本格を書いていた陳舜臣や結城昌治など多くの作家が、まもなく別ジャンルに転出していく。読者も少ないし評価も低ければ、作家が本格を継続的に書いていく気も薄れる。本格を継続的に書いていく例が、この時期にデビューした作家に少ないのも、ジャンル的凝縮力が希薄化した結果だ。
笠井潔 @kiyoshikasai
この意味で、やはり本格「冬の時代」は存在したのである。
巽昌章 @kumonoaruji
私はもともと、「本格冬の時代」があったかなかったかという議論に進んで参加する気にはなれなかった。最低限言えることは、吹雪の山荘のような舞台や、明敏神のごとき名探偵や、連続見立て首切り殺人的な犯罪、つまり「現実離れした」趣向で貫かれた小説の少ない時代があったということだろう。
巽昌章 @kumonoaruji
だから、そういう現実離れしたものが好きな人間にとっては「冬の時代はあった」し、そうした好みでない人には「なかった」といっても一応は構わない。しかし、大事な問題は別のところにある。
巽昌章 @kumonoaruji
「冬の時代」をめぐる対立が、現実離れを好むか否かと等価でないことを示す例をいくつかあげよう。老横溝正史は自分のブームがきたことに対し、とまどいを隠さなかった。旧家の屋敷、因縁の殺人、名探偵といったものの消長が流行の推移にすぎないのなら、彼はもっと堂々と自分の復権をうけいれたろう。
巽昌章 @kumonoaruji
リアリズムに立脚する社会派も、横溝のいう「ご趣向本位」の作品もともに自由に存在でき、読者が好みに従って選択できる時代が続いていたのなら、横溝もとまどわなかったろう。自分のような作風はもはや許されないのではないか、と考えたからこそ、彼はとまどったのだ。
巽昌章 @kumonoaruji
つまり、「現実離れ」した作品は、単に流行が去って廃ったのではない。そうした作風を「許されない」「正しくない」と思わせる力が働いていたのだ。そうした力を生み出した人々として、松本清張や佐野洋の名を挙げても間違いではないだろう。
巽昌章 @kumonoaruji
だが、それを「社会派による本格派の排斥」と呼ぶのはこれまた単純すぎる。推理小説のコアな読者に限って言えば、影響力をふるったのはむしろ、戦後の海外ミステリであり、そこから生じた一種の進歩史観である。
巽昌章 @kumonoaruji
たとえば、佐野洋もそうした海外作品の影響を受けた一人だし、小泉喜美子は、清張的なリアリズムとトリックにこだわる従来の本格の両方を切り捨てた。要するにダサいというわけだ。
巽昌章 @kumonoaruji
冬の時代の話の続きは夜に書くとして、ひとつ前提をおさえておく。過去を振り返るときに、「伝統」なるものがあると頭からきめこんでいると、遠近法的倒錯というやつに陥る。
巽昌章 @kumonoaruji
奇怪な館は本格ミステリの伝統とは言えず、法月綸太郎が「後期クイーン的問題」に取り組んだのは伝統の要請ではなく、カーは『人狼城の恐怖』のようなものを書かなかった。
巽昌章 @kumonoaruji
むろん、それぞれの作家が先人にヒントを得て伝言ゲーム的な差異をはらんだ試みをすることはいくらもあるし、そこに生まれるある種の共通項やつながりを「伝統」と呼ぶのは構わないけれども。
巽昌章 @kumonoaruji
逆にいえば、たとえば新本格のような目立ったムーヴメントが盛り上がるとき、これに対応した形で「伝統」が作り上げられてしまいがちである。それはムーヴメントの活力源として有益でもあるが、真に受けるわけにもいかないのだ。
巽昌章 @kumonoaruji
だから、「冬の時代」を論じるにあたってまず警戒しなければならないのは、それを、伝統とその(社会派等による)中断という図式にしてしまうことだ。私は昨日、横溝の作品を「現実離れ」と評したが、実は、同じ観点から、この評価にも留保をつけねばならない。
巽昌章 @kumonoaruji
というのは、『獄門島』にせよ『悪魔の手毬唄』にせよ、横溝なりに、その時代に即したリアルな田舎を描こうとしているからだ。後年栗本薫が書いた『鬼面の研究』と『手毬唄』を比べてみれば、栗本が横溝作品を、わざと紋切り型の「クローズドサークル」ものに見せかけようとしているのがわかる。
巽昌章 @kumonoaruji
『絃の聖域』での館もそうだ。つまり、栗本は、横溝作品を、実際以上に「現実離れ」したものに祭り上げたうえで、そこに自分たちが「現実離れ」した作風を展開するためのよりどころを求めたわけだ。
巽昌章 @kumonoaruji
つまり、横溝のになっていた「伝統」を清張が邪魔し、栗本や綾辻が復興した、などという単純化をすれば、倒錯した史観に陥ってしまう。
巽昌章 @kumonoaruji
昼の続きから。『鬼面の研究』の最後に、現代にはもはや横溝が描いた閉鎖的村落などない、というセリフが出てくる。すでに述べたとおり、これは横溝作品の歪曲といわざるをえないのだが、栗本がそう書いたのは、横溝的なものを捨て去ろうという趣旨ではない。逆である。
巽昌章 @kumonoaruji
もはや現実には存在しない、といったん書くことで、そうした横溝的世界へのあこがれを掻きたてようとしていたのだ。アイロニカルな肯定といってもよいだろう。現実にはないが、あえて支持する。それがすばらしく探偵小説的だから。
巽昌章 @kumonoaruji
今の社会には存在しないが、すばらしい夢。栗本がめざしたのは、そんな「探偵小説」のイメージを作ることだった。まず目標のイメージ設定から始め、しかも、そこにアイロニカルな、あるいは弁解めいた言辞をはさまねばならなかったのは、そうした「現実離れ」をよしとしない力にさらされていたからだ。
巽昌章 @kumonoaruji
栗本がデビューした雑誌「幻影城」で、新人賞の選考委員をつとめた中井英夫は、ある年の選評に、外国が舞台で一人も日本人が登場しない応募作はないか、と祈るような調子で書きつけている。そんな小説を書けば、外国を舞台にする必然性がない、日本人を出さない理由がないと酷評される時代だった。
巽昌章 @kumonoaruji
現代日本の社会を、いわゆるリアリズムで描いている限り、なぜそれを描くのかの「必然性」など求められることはない。しかし、現実にない舞台や名探偵のようなおかしな登場人物を出すことには「必然性」が求められ、しかも、その方が面白いからとか、かっこいいからではなかなか許してもらえない。
巽昌章 @kumonoaruji
そんな形で「必然性」を求めていくのは、ある範囲の人だけが共有する「リアリズム」の鋳型にすべてをはめこもうとする同調圧力でしかない。これは、現実離れが好きか嫌いかという好みの問題ではすまない事態である。
巽昌章 @kumonoaruji
同じ「幻影城」の新人賞で佳作となった泡坂妻夫は、受賞の際に、自分のような作風を受け入れてくれるのは「幻影城」だけだと思っていたという意味のことを述べている。実際、受賞後の泡坂は、「掌上の黄金仮面」や『乱れからくり』のような極端に現実離れした設定の作品を次々に発表する。
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