【三国志】諸葛亮の南征
「安遠寨、(江陽)県南七十里。世伝諸葛武侯征蛮、於此屯駐。」(讀史方輿紀要巻七十二) どうも朱提郡と言うより犍為郡だな。ただ、鄧方の頃は、犍為属国から朱提郡が立てられたばかりだから、政治的理由でその境界を犍為郡に寄らせててもおかしくはない http://t.co/Mkrtt0rq
2012-05-03 23:16:21何にしても、讀史方輿紀要は侮れない。陳倉攻めの諸葛亮が、陳倉の東十里にある場所に城を建てて、汧水を挟んで陳倉と対峙したなんて、三国志だけ読んでちゃ分からないね
2012-05-03 23:17:24讀史方輿紀要の雲南の巻(一百十三から一百十九)には、諸葛武侯が建てたとされる城、陣地、狼煙代の記述が散りばめられている。これらを拾い集め、位置を特定していけば、南中平定における諸葛亮の行動が分かると思う。面倒だからやりたくないけど
2012-05-03 23:29:32「金沙江、源出麗江府西北旄牛徼外、以産金沙而名。~中略~又東歴武定府北境、又東達四川之会川衛西南而合瀘水、於是金沙江亦兼瀘水之名。」諸葛亮は、五月に武定府の辺りで瀘水を渡った
2012-05-03 23:56:42「潞江、在永昌府潞江安撫司東北三十里。源出吐蕃雍望甸、東南流經司北、兩岸陡絕、瘴癘甚毒、夏秋之間人不敢渡。本名怒江、以波濤洶湧而名也。諸葛武侯六擒孟獲、駐兵怒江之滸。即此。」
2012-05-03 23:58:19「石門、在麗江府巨津州西百里、今在大理府北七十里、当点蒼山之背。遵洱河而上、其山両壁牆立、有若門然、即唐時石門南道也。従会川渡金沙江西南行、繇此入南詔之羊苴咩城。諸葛武侯繇此征南中、史万歲繇此撃叛爨、韋仁寿、梁建方亦繇此平西洱諸蛮」誰か読んでくれると助かる。なんとなくしか分からん
2012-05-04 00:02:27ちょっと前まで、「諸葛亮は南征に失敗してる。あれは馬忠と張嶷の手柄」みたいに語る人が多かったが、この武侯の名前の残り方を見ると、諸葛亮が南征したことのインパクトは凄いね。馬忠とか完全に霞んでるよ
2012-05-04 00:09:52讀史方輿紀要は明末の書。なので、既に三国演義は流布している時代に編纂されている。すなわち、この讀史方輿紀要にある諸葛武侯の話は、どこまで実際を表しているかは分からない。演義をもとにしている可能性も大いにある
2012-05-04 00:41:16諸葛亮の南征含め、安遠から馬忠に至るまでの南中における蜀漢の軍事行動を、地理も含めて正確に理解してる人なんて、実はほとんどいないと思う
2012-05-04 21:13:24建興三年春、諸葛亮は南征を開始し、安上より水路によりて越嶲へと入った。高定は旄牛より、定笮、卑水に至るまで多数の陣地を築いていた。諸葛亮はこれを集結させてから叩こうと、卑水に軍を進めた。夏五月、高定を破った諸葛亮は、瀘を渡り益州へ向った http://t.co/Kg2H5xJd
2012-05-05 01:36:56益州記曰「瀘水源出曲羅巂下三百里、曰瀘水。両峰有殺気、暑月旧不行、故武侯以夏渡為艱、瀘水又下合諸水而総其目焉、故有瀘江之名矣。」また、水経注には、濾水の毒は三月と四月に最も酷く、五月になると無害になるとある。演義のエピソードはこれらをもとにしている
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