【三国志】第一次北伐(諸葛亮)_付街亭考

街亭についての疑問をもとに、諸葛亮の第一次北伐について考えてみた。 唯一勝算のあった北伐と言われているが、諸葛亮にはどのような狙いがあり、何が彼を敗北に導いたのだろうか?
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鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

@Jominian 街亭をただの山だと思ってました>< 馬謖は県城に入ったってことなんですかね。

2012-05-10 01:47:28
Jominian @Jominian

@my_birthday0128 張郃伝に拠ると、県城を放棄して南山に登りました

2012-05-10 01:47:56
鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

@Jominian ちょっと調べればわかることをお聞きしてすいません。諸葛亮としては馬謖を城で戦わせたかったんでしょうかね。

2012-05-10 01:55:56
Jominian @Jominian

@my_birthday0128 山と城と両方用いて防がせたかったんだと思います。山に部隊と指揮所を置けば、敵が見渡せて適切な指示が出せますし、城を守れば敵の突破を大いに防げます。多分城と山は近いですし。諸葛亮の意図はどこにも書かれていないので、推測しか出来ませんけどね。

2012-05-10 01:58:21
鎮虎大将軍雲子 @my_birthday0128

@Jominian なるほど、ありがとうございます。城と山での連携ですか。ジョミにゃん先生が出陣していれば北伐は成功していましたね!

2012-05-10 02:15:21
Jominian @Jominian

@my_birthday0128 口だけなので兵が言うことをききません><

2012-05-10 02:24:34
Jominian @Jominian

南征での築城の多さは必要に迫られてのものだったろうが、それでも多い。また、北伐でも城を築いている逸話が散見される。そうした諸葛亮の戦い方の傾向から、第一次北伐を読み解けるかもしれない。あの時の諸葛亮本隊は動向が不明だが、それを推測する要素になる

2012-05-10 06:39:23
Jominian @Jominian

諸葛亮は第二次北伐、第四次北伐、第五次北伐で、築城か、それに準じる陣地を構築している。第一次北伐だけする気が無かったとは言い難いだろう。ましてや南征でも築いているのだから

2012-05-10 06:56:24
Jominian @Jominian

西県の住民を蜀に連れ帰ったことから察するに、諸葛亮は西県付近に、すなわち祁山と上ケイの間に居たと考えるのが自然だ。この地に築城しても、後方の備えにしかならない、と考えてしまう。魏軍が渭水の線まで進出すれば、降伏した郡の人心が揺らぐから、諸葛亮に前進の必要があると見るから

2012-05-10 07:10:15
Jominian @Jominian

だが、一つの事実として、諸葛亮が直接進出していない安定郡の降伏があり、魏軍はこれに直接は対応はせず、蜀軍打破のため、隴右に進出した。つまり、仮に諸葛亮が西県から動かなくとも、魏軍は諸葛亮を捕捉しようと渭水を越えて南下したのではないか?

2012-05-10 07:17:39
Jominian @Jominian

とはいえ、諸葛亮が馬謖の敗北を受けて全軍撤退したことも事実であり、馬謖軍を回収しつつ西県で迎え撃つという選択は、少なくともあの時点ではできなかったことになる

2012-05-10 07:24:47
Jominian @Jominian

馬謖の敗北によって進んでも拠るところがなくなったから撤退した、とある。これを素直に受け取ると、諸葛亮は街亭に拠るつもりだったように読める。ではなぜ初めから自身が進出しなかったのか?

2012-05-10 07:34:02
Jominian @Jominian

「馬謖が時間を稼いでいる間に隴右の諸郡を制圧するつもりだった」という意見もある。なるほど、もっともらしく聞こえる。しかし、それは先ほどの「前進しても拠るところがなくなったので退いた」という言葉と相容れない。また、実際にも現実的ではない

2012-05-10 07:37:54
Jominian @Jominian

隴右郡は降らず、郭淮は恐らく上ケイで抵抗していた。涼州からも敵が来るのは予想できるし、実際にも来た。これらを降し安全を確保するには、数ヶ月かかろう。馬謖にそんな長期間敵の前進を防がせるつもりだったとは思えない

2012-05-10 07:41:54
お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian 「涼州諸軍と張郃軍の両方に対処できる態勢を取っていたのかなあ」ぐらいに思ってたんですが、どうなのでしょうね?

2012-05-10 07:46:10
Jominian @Jominian

@sweets_street こういう時の私は、ぼんやりと答えが見えているのですよ。結論から言うと、その意見は一面では正しいです

2012-05-10 07:50:11
お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian 西から来る涼州諸軍は相当な脅威だったと思うのですが、誰かが対処した形跡がないんですよね。主力から軍を分けて対処するには主力の兵が少ないけど、対処しないわけにも行かない。そこが引っかかってます

2012-05-10 07:52:27
Jominian @Jominian

結局のところ、諸葛亮がどこに居ようと、魏軍は諸葛亮を撃たねば戦いは終わらない。また、諸郡の降伏は諸葛亮にとっては僥倖であり、初めから計算していたわけではなく、彼の戦略には無かっただろう

2012-05-10 07:56:09
Jominian @Jominian

@sweets_street 私の考えでは、軍など分ける必要は無いのです

2012-05-10 07:57:25
Jominian @Jominian

諸葛亮が隴右を制圧するつもりだったと考える人は、最初の降伏が図られたものではないことを忘れている。あの降伏なしで隴右を制圧するなど、現実的ではない。諸葛亮の当初の戦略に隴右の直接的制圧などない

2012-05-10 08:00:57
Jominian @Jominian

諸葛亮が居たのが、第一次北伐でも第四次北伐でも西県だったのは偶然ではない。諸葛亮は上ケイから祁山までの回廊状の地形で敵を迎え撃つつもりだった。この地には麦もあり、回廊状であるがゆえ守りやすくもある。大軍であっても迎え撃てる場所である

2012-05-10 08:04:26
お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian 軍を分けないと東西から挟撃を受けませんか?各個撃破をするつもりなら、主力を集結するまでの時間が足りないような

2012-05-10 08:09:58
Jominian @Jominian

諸葛亮は、第四次北伐同様、ここに堅固な城塞を築くつもりだった。孟達と趙雲の陽動で、魏軍主力の到着を遅滞させ、城塞構築の時間を稼ぐつもりだったが失敗した。魏の援軍が諸葛亮の想定を超える規模で送り込まれたからである。そのため、馬謖によって更なる時間を稼ごうとしたのだ

2012-05-10 08:10:04
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