立憲民政党・若槻元首相をはじめとする政党政治史論 vol.2

@NaoyaSugitani 氏による政党政治史論のまとめ、その2になります。 まとめその1→ http://togetter.com/li/296733
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@NaoyaSugitani

正直政権交代の時に憲政会・民政党と政友会の議論がほとんどなされなかった時点で、多かれ少なかれ近現代史学者は失望したのではないか、と思っている。

2012-05-12 01:32:44
@NaoyaSugitani

奈良岡聰智『加藤高明と政党政治』読了。英字史料からくずし字史料までを網羅し、加藤高明の再評価を図った力作。非政友勢力(同志会・憲政会・民政党)に焦点を当てた本格的研究でもあり、この研究のもつ意義は極めて大きい。特に加藤内閣期の詳細な叙述は目を見張るものがある。

2012-05-03 16:09:25
@NaoyaSugitani

加藤が政務次官を採用したり、枢密院改革や海軍予算をめぐってリーダーシップをとり、政党政治の基盤を確立した過程は極めて興味深く、政党政治像に新たな姿を投影したと言えよう。氏の能力の高さと叙述の完成度にはただただ脱帽するばかりである。ただいくつか指摘せねばならないこともある。

2012-05-03 16:11:10
@NaoyaSugitani

何回か指摘したことだが、氏自身も自覚している通り、加藤への拘りが強すぎるがあまり、その再評価がしばしば極端な方向に向いている点は留意せねばならない。「おわりに」では昭和恐慌や満洲事変やロンドン条約問題などは加藤ならば上手くやれた、との叙述しているが果たしてそうか。

2012-05-03 16:12:37
@NaoyaSugitani

そもそも金解禁や経済界の強い要望の上で決行れたものであり、三菱などと関係の深かった加藤がその要望を拒否し続けられたかどうかは疑問である。また、ロンドン条約についても海軍との衝突は避けられたとしても氏も既に指摘している通り右翼勢力から強い反発があった加藤が攻撃を受けた可能性は高い。

2012-05-03 16:16:14
@NaoyaSugitani

結果的にそれに同調した海軍強硬派を加藤がどこまで抑えられたかは分からない。満洲事変についても川田稔氏の指摘がある通り、ある程度一致していた陸軍の策動の前に加藤が内閣総辞職に陥らずに対応できたかどうかは疑問である。氏は加藤の限界を指摘している通り、そこには構造上の問題もあった。

2012-05-03 16:18:20
@NaoyaSugitani

また後継者となった若槻礼次郎の失政を批判しているが、この点についてはむしろ憲政会という政党そのものの抱えていた問題が加藤の死によって相次いで露呈したと捉えるのが妥当であろう。憲政会は加藤の強力なリーダーシップでまとまっており、加藤がいなくなればたやすく瓦解する危ういものだった。

2012-05-03 16:19:44
@NaoyaSugitani

氏が指摘してきた加藤を中心とする憲政会の体制は、逆説的に「加藤ありきの体制」であったことを示している。若槻は党内に強大な基盤があったわけでもなく、いきなり政務と党務を引き受けることになった。加藤は長い在野期間を経て憲政会をまとめ上げたのに対し、若槻にはそんな余裕は無かった。

2012-05-03 16:22:15
@NaoyaSugitani

それは総裁中心主義になりがちな戦前政党そのものの限界でもあった。中心を失い、動揺する党の安定的運営と政務の並立という両立のほとんど不可能な難題を突き付けられた若槻は不幸としか言いようがなかった。それは加藤と憲政会の限界であり、若槻の限界であり、政党政治の限界でもあった。

2012-05-03 16:24:47
@NaoyaSugitani

尤もそれで若槻の失政の全てが弁解できるわけではないが、後継者の育成という点で加藤は大きな失敗を犯したとも言えよう。いずれにせよ加藤が示したのは戦前政党政治の可能性とその限界であった。加藤はその限界に最も近づいた政治家であった。そのことは評価されるべきであろう。

2012-05-03 16:26:08
@NaoyaSugitani

加藤の政党政治構想はわずか八年で瓦解した。だが、それは政党政治の体制が脆弱だったことを意味しない。近年指摘されているように、政党政治家と政党は思われていた以上に強かであり、彼らには戦前日本を戦争から回避させる可能性が十分にあった。その歴史は今一度検討されなければならない。

2012-05-03 16:27:24
@NaoyaSugitani

今後加藤はじめ政党政治家の再評価がますます進むだろう。そこにあるのはただ軍部の影におびえ、自己保身に走り、党争にあけくれる矮小な姿ではなく、戦前日本を牽引し懸命に時局に抗しようとした雄姿ではないだろうか。今政党政治そのものが否定されるような風潮がある。今一度戦前を振り返るべきだ。

2012-05-03 16:29:19
@NaoyaSugitani

ここに最後に奈良岡氏の文を引用したい。「自国の歴史的経験に対する洞察を欠いたまま、その時々の状況に応じて都合良く欧米のモデルが提示されていく様には、違和感を覚えざるを得なかった。(続)

2012-05-03 16:33:06
@NaoyaSugitani

(承前)今日政権交代可能な政党システムの創出が望まれているが、それを曲がりなりにも実現させた戦前期日本の経験は、今後の政党政治の行く末を見定める上で貴重な示唆を与えてくれるのではないだろうか。」

2012-05-03 16:33:25
@NaoyaSugitani

私も奈良岡氏と全く同意見である。今こそ戦前政党政治史を再検討し、安易な人物礼讃や批判、なぜファッショ化したのかという結論ありきの議論、ニヒリズム的な政党否定論ではない、より生産的かつ客観的で構造論的な政党政治論・政治家論が望まれる。私も今後その一端に少しでも触れられればと思う。

2012-05-03 16:36:19

立憲同志会→憲政会の成り立ちと総裁個人の力量に依存する体質

@NaoyaSugitani

@mst37305 大隈後援会は規模がそれほど大きくなかったですから、ある選挙区で大隈入れたいけど後援会から人が出ていないという際に同志会を支持したというケースが多かったのでしょうね。

2012-05-12 17:04:28
@NaoyaSugitani

@mst37305 理由の一つは大隈人気です。彼の人気が結果に出たといえます。後は安達謙蔵の役割も大きかったようですね。この選挙から彼は選挙の神様と呼ばれるようになります。

2012-05-12 16:44:08
@NaoyaSugitani

@mst37305 同志会は桂の死後跡を継いだ加藤高明によって徐々に政党としての体裁を整えていきます。そこに若槻礼次郎や浜口雄幸など有力代議士の積極的な選挙活動も加わったことで同志会は与党になる訳です。

2012-05-12 16:47:09
@NaoyaSugitani

@mst37305 同志会は後に加藤の外交失政もあって勢力を落としますが、その後憲政会として力をつけて民政党に繋がります。憲政会苦節十年とは加藤内閣までの野党時代を指します。補足までに。

2012-05-12 16:50:55
@NaoyaSugitani

@mst37305 桂の死後混乱する政党を与党にまで押し上げたのは一重に幹部連の力量でしたね。下野後からまた色々と問題が生じますが、加藤がどうにかまとめあげて憲政会を作ります。加藤の死後混乱がまた生じるのですが若槻が最後に政友本党をとりこんで民政党が出来ます。

2012-05-12 17:20:52
@NaoyaSugitani

@mst37305 民政党は浜口を中心にまとまりますが浜口遭難後はやはりまた混乱が生じます。同志会―憲政会―民政党に特徴的なのは突然リーダーが死に、その後混乱を経て総裁が野党時代に組織をまとめあげるという図式ですね。総裁中心主義、というのが一つの特徴と言えるでしょうか。

2012-05-12 17:22:47
@NaoyaSugitani

@mst37305 そうですね。それは逆説的にいえば総裁が突然いなくなった場合に党そのものの運営が危うくなるという危険と隣り合わせでした。そうした場面に二度遭遇した憲政会・民政党は党内対立が深刻化し、後者の際においては内閣が総辞職する結果にまでなりました。

2012-05-12 17:36:39
@NaoyaSugitani

@mst37305 政友会も内部対立が顕著で、床次竹二郎らは高橋総裁に反発して政友会を脱党しています。その後も政友会は内部対立が大きな問題となり、久原派と中島派に分裂してしまう事態にまで陥ります。原・田中・犬養総裁は強力な指導力を発揮しており、その頃は政友会も安定していました。

2012-05-12 17:41:28