今日訪れたのは、竹中半兵衛重治の墓所。兵庫県三木市の平井山というところにあります。さすがにお墓を撮影するのは気が引けたので、看板を撮影してきました! http://t.co/7EGqYVEs
2012-05-14 20:57:28竹中半兵衛重治が亡くなったのは天正七年、六月十三日。秀吉の播磨平定のなかの、三木城を攻めている途中です。京都で療養していたが、固着した戦況を知って三木までわざわざ駆けつけたのだとか。秀吉は人目もはばからず半兵衛に取りすがって泣いた、と墓所の看板にはありました。
2012-05-14 21:02:36電車でも不便な場所にあるからか、墓所はひっそりとしていました。ぶどう園の中にあり、ぶどう狩りのシーズンになると駅から無料バスが出るそうです。お供えもだいぶ日が経っている感じだったので、なにか持ってくればよかったかな...と思いました。
2012-05-14 21:08:00また、栄運寺にももう一つの竹中半兵衛の墓、と呼ばれる場所があるようです。どうやらこちらは一族を祀った供養塔だそうで。今日は時間が足りなかったのでそこまで回れませんでした...
2012-05-14 21:15:46ちなみに、両兵衛として知られるもう一人、黒田官兵衛は竹中半兵衛が亡くなったとき、まだ幽閉中なのです...。播磨平定で連携して戦ったためか、半兵衛は信長に殺されるはずだった官兵衛の息子(後の黒田長政ですね)を救っています。死の間際まで黒田親子を案じていたとか。
2012-05-14 21:25:11というわけで、半兵衛編終了です!半兵衛の逸話は史実かどうか怪しいものが多いらしいですが、そのぶん魅力ある逸話が多いように思いますねー。
2012-05-14 21:35:27今日は兵庫県姫路市、御着城跡まで行ってきました。黒田官兵衛孝高は、この御着城に小寺家の家臣として親子ともども仕えていたそうです。 http://t.co/nvvVl2sP
2012-05-15 18:31:08黒田官兵衛が産まれたのは、あの世界遺産で有名な姫路城です。当時は今のような城郭ではなく、小寺氏が家臣である黒田氏にあげた城、という扱いのようですね。のちに官兵衛は姫路城を秀吉に提供しています。
2012-05-15 18:34:33現在はこんな建物があります。東出張所、とあったのでおそらく市役所かなにかが入っているのだと思います。なんとなくお城をイメージできる建物ですね。 http://t.co/pSw0qGOU
2012-05-15 18:38:36さらに、黒田官兵衛ゆかりの目薬の木というのが横に植えられています。官兵衛の父がこの木から目薬を作って売ったのだとか。 http://t.co/i3YDTFWH
2012-05-15 18:41:16あと、建物の前にはこんな顔出し看板も。御着城跡はあまり敷地としては広くなく、小さめの公園という印象でした。 http://t.co/WmJBB5eA
2012-05-15 18:46:14黒田官兵衛は秀吉の播磨平定のときに秀吉に味方し、その勝利に貢献しました。一方、この御着城の主である小寺氏は最初信長に同調するものの後に反旗を翻したために滅ぼされます。そのため、それまで小寺姓を名乗っていた官兵衛は本来の黒田姓を名乗るようになったのだとか。
2012-05-15 18:49:02他にも官兵衛ゆかりの土地は多く、墓所もどうやら福岡県にあるようです。近くにある図書館には、「官兵衛さんの大きな夢」という絵本があり、それによると官兵衛ゆかりの土地の人たちが協力しあい、官兵衛を大河ドラマにしようという動きがあるということで...果たして実現するんでしょうか...
2012-05-15 18:53:27現地の看板の説明や、図書館の本のラインナップを見た感じ、腹黒軍師官兵衛!というイメージではなく、秀吉の天下統一に尽力し、その気になれば天下もとれた知将官兵衛!というイメージを抱きました。
2012-05-15 18:55:47