物語の主人公の自意識が中継地点である社会をすっとばして世界と直結してるのがセカイ系、みたいなのが大抵のセカイ系の説明の要旨だけど、ここからしてズレてる印象。「自分と世界の中間点に社会が存在している」という現実の前提を、無条件でフィクションでも適用しなければならないと確信している。
2010-06-20 21:33:50セカイ系が嫌いな人は大抵そこが鼻につくのだろうけども。自意識が世界とうんたら~ってのは、それは結果的にそうなっている特徴であって、そもそも世の中のセカイ系と呼ばれる作品は主人公と世界の関係なんて考えてないと思う。
2010-06-20 21:38:09なのでセカイ系を考察するには世界とか社会は一旦脇に置かないといけない。考察側にとっては大事な要素かもしれんが作ってる側にとってはそもそも埒外だから。
2010-06-20 21:43:15昔、何かで「キャラクターが場面から退場しても、”いなくなる”わけじゃなくて見えないところで生活してたり動いたりしてるのを自然に想像できるのが良い作品」というのを読んだ気がする。フレームの外が想像できる物語は良い物語。多分これが普遍的な価値観。
2010-06-20 21:55:26実際に描かれてるシーン以外が想像できる。キャラクターが生きている。社会がある。世界がある。作品で表現してるフレームの外の存在がちゃんと感じられるものが優秀っていう考え方から外れたのがいわゆるセカイ系というか、結果的にセカイ系にカテゴリされたものたち。
2010-06-20 22:00:20その理由は「別にいらなくね?」とか「主題でいっぱいいっぱいなので余計な情報は無駄」とか「舞台装置なんでギミック扱い」とか「え、よくわからないけどなんのこと?」とかいろいろあって一本筋ではない気がする。
2010-06-20 22:04:41要するに何が言いたいかと言うと、セカイ系は固定されたフレーム(=世界)に対して主人公の自意識が拡大したものではなくて、フレームは実際には伸縮可能で、それを作者の意図する必要最小限まで縮小したものが結果的にセカイ系と呼ばれてるんじゃねえかという話。
2010-06-20 22:09:13セカイ系に関する考察は、社会との関わりとか世界がどうのとかに固執したがる傾向があるけど、あれ単純に考察好きな人ほど社会論語りたがるからっていう理由じゃねえかなぁ。
2010-06-20 22:18:28