(仮)榊原殿の語る、長篠の戦いと、信玄公の話。

いったんまとめます。続きはまた明日。 信玄公の話しも微妙に追加。
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吉川弘文館営業部official @yk_sales

【今日は何の日】1575(天正3)年 5月21日 織田信長・徳川家康,長篠に武田勝頼を大破(長篠の戦)(細川家文書)。『日本史総合年表 第2版』より。 #yk_nannohi

2012-05-21 21:32:07
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

さてと。今日は…旧暦だが、長篠の戦いの日だな。

2012-05-21 22:10:26
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

より正確には、設楽原の戦いと言う。若干誤解されとる向きもあるが、織田対武田の戦いではなく、元々は徳川と武田の領地争いだ。長篠は国境線上にあったというとわかりやすいか。

2012-05-21 22:13:40
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

元亀3年の三方ヶ原の戦いから4年、信玄公が亡くなられた後は、徳川と武田は各地で小競り合いを起こしておった。しかし天正2年から…つまり信玄公の喪があけた頃からまた遠州や三州への積極的な侵攻を武田勝頼殿が行い、高天神城が落とされておる。

2012-05-21 22:20:17
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

長篠のあたりは元々奥平家の領地でな。奥平は最前線に立たされて、一端は武田方につくものの、この頃再び徳川方に戻っておった。で、この時の長篠城攻めは、徳川に攻略された長篠城を再度とりかえすのが目的だった。

2012-05-21 22:24:04
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

天正三年四月下旬、武田勝頼殿は一万五千とも言われる軍勢をもって長篠城を包囲。五月に入ると、一端様子見もかねてか吉田城を攻撃。これは酒井殿が追い返したが、殿は織田殿に援軍を求められる。織田殿が岐阜を出られたのが五月の十三日。

2012-05-21 22:28:51
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

このころ武田勝頼殿は長篠城攻めを本格的に行っており、奥平殿は本丸まで追い詰められたと言う。そして鳥居強右衛門殿が救援を求めて長篠城を出られた。

2012-05-21 22:30:34
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

十五日には織田殿は岡崎に入り、殿と合流された。ここに鳥居強右衛門殿が到着されて、長篠城の様子がわかり、作戦も立てられた。織田徳川の軍は、十八日に設楽原に着陣。

2012-05-21 22:35:15
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

鳥居強右衛門殿のことについては、少し前にひすとりーでもやっとったな。

2012-05-21 22:39:15
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

強右衛門殿は援軍が来ることを長篠の仲間に伝えようとして捕らえられたが、「援軍はこないから諦めろと言えば命は助けてやる」…と言われ、引き出された長篠城の前で「援軍はもうすぐ来る、あと少しの辛抱だ」と叫び、磔にされた。

2012-05-21 22:42:23
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

設楽原に我等が着陣したことで、武田側では対応をどうするかで相当にもめたようだ。織田徳川連合軍、数はおよそ三万八千。対して武田方は一万五千、しかも長篠城を長期間包囲しておった後だ。最も兵の練度は武田はおそろしく高いので、そこはあまり考慮せずともよかったのかもしれん。

2012-05-21 22:45:09
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

しかし設楽原の地形は低い丘陵の間に川と湿地がはさまれておるような形で、見通しがききにくい。また兵をかためてではなく、ある程度離して陣をしいた。まとめて置けるほどの広さもなかったがな。このことが武田側に兵の数を読みにくくさせていたのかもしれん。

2012-05-21 22:53:38
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

すぐに武田との全面対決はせず、少数の兵を出しては引く。ということをやっておったな。その間に、馬防柵を連吾川ぞいにつくった。この長さは今の距離で言うと二キロ半ほどにもなった。一般に三重の柵と言われるが、これは二重の柵だな。

2012-05-21 22:57:35
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

なおこの長篠の戦いの時、兵部はまだ小姓として仕官したばかりで、参戦しておらん。わしは平八郎と舅殿と相備組、いつもの旗本先手だな。

2012-05-21 22:59:53
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

さて、我が家の家伝はわしが死んだ後だいぶたってからまとめられたもので、実はわしもちゃんと読んでおらんのだが、そこにこんな記述がある。

2012-05-21 23:03:35
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

信長公被仰候は堀を二重に堀り、柵を付け可然と仰られ候に付て、目の上一尺廻り木を以て二重に柵を付け御軍を御かまえなされ、鉄砲の手者、権現様御手に五百挺、信長公御手に七百挺、柵に掛騎馬の侍柵の前に並て被為差置候間、甲州贄突掛候と同時に柵の内へ引取候へと、御先手康政公下知申され候。

2012-05-21 23:03:55
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

つまり鉄砲兵は柵の内側にいるんだが、柵の前に騎馬兵を並べておき、敵が突撃してきたらそれが引いて、鉄砲を撃ちかける。という作戦だな。

2012-05-21 23:09:11
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

このころの兵は持っている武器ごとにまとまって隊をつくるということはまだされとらんかったんだが、この戦いの時は例外的に鉄砲足軽ばかりを集めて配置しとる。

2012-05-21 23:15:21
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

織田側の鉄砲三千挺などと言われるようだが、実際は千から多くて千五百挺というところだろう。

2012-05-21 23:17:41
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

…うん、もうちょっとざっくりと話すつもりだったんだが、細かい話になっとるな…。すまんが続きは明日にする。

2012-05-21 23:19:06
井伊万千代直政 @1561_naomasa

@sakaki_koheita お疲れ様です。 俺からですと、後から聞かされたことばかりなので、微妙に歯がゆいですが…また明日期待してます

2012-05-21 23:21:10

直政さんは、当時まだ14歳。
文献によると、吉田城にいた説と岡崎城にいた説とありますが、いったいどちらが本当なんでしょうね?

しばらくして、信玄公が帰宅。そして語りが始まりました。