昭和初期の『格差』について

収入による格差、地方による格差等を不時ッコ‏@bukrd405さんの連ツイから
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@bukrd405

この高級サラリーマンの一番の遊び所はどこよりも「銀座」であった。尾張町交差点を中心とした表の銀座通りは、一流ブランドの高級店が並んでいたが、奥は目的もなく漫然とただ歩道を歩くだけの銀ブラ族が横行していた。

2012-05-22 13:01:43
@bukrd405

裏通りには飲食店のほか関東大震災後はバーやキャバレーなどの酒場が溢れていた。だが飲むのは男だけの楽しみの場だった。一方浅草では、上級サラリーマン家庭が楽しんだステージは、歌舞伎座を筆頭として、海外名演奏家を招いた帝国劇場、芸術座、それに演劇の築地小劇場などいわゆる新劇と新派、

2012-05-22 13:03:36
@bukrd405

(承前)それに海外の映画などであった。さらに裕福なサラリーマン家庭では小型の蓄音機を求めるようになって急速に普及した。新しい童謡が子供の音楽文化を支え、映画の主題歌がレコードになって効果をあげた。浪花節や新民謡も好まれて、音の家庭文化を作った。

2012-05-22 13:07:14
@bukrd405

最先端の生活文化を享受できたこのサラリーマン層(上級の新中間層)の不自由のない恵まれた暮らしぶりは、実は大正中期から始まりその後もレベルを上げて昭和14年頃まで続いていた。ひとたび大会社のエリートコースや官公庁もしくは軍隊の幹部職員にありつければ、不況や恐慌や失業などは関係なく、

2012-05-22 13:12:58
@bukrd405

(承前)農漁村の大凶作・大飢饉も、昭和6年から始まった戦争の拡大進行も生活を脅かすものではなかった。むしろ、大企業や国の財政はそれを好餌として給与を高めていった。物価が下がるだけ、暮らしは楽になったのである。

2012-05-22 13:14:55
@bukrd405

一方、低所得家族の暮らしはどのようなものであったか。1929年に世界恐慌の大波が押し寄せると、企業の操業短縮、倒産があいつぎ、産業合理化によって、賃金引き下げにとどまらず、給料生活者、肉体労働者、下級公務員の人員整理が行われて、失業者が続出した。

2012-05-22 13:18:04
@bukrd405

多くの女工は都市から生れた村に帰っていった。関西はおろか、九州まで帰るという者もいる。しかし汽車賃もなく、トボトボと物乞いをしながら街道を歩く姿が目立った。帰る先がない失業者は、ルンペン(浮浪者)いなったり売春婦になったりするほか生きるすべがなくなった。

2012-05-22 13:20:06
@bukrd405

当時の失業体験記の一つ。「殴られた様な気持ちで、私は1日をほつつき歩るく。ピカピカと光つた円タクの中の紳士、旨さうに煙を燻らせて、オーバーの裾をひらつかせてゐる月給取、手を上げている交通巡査、盛装して赤い絹物を蹴り出してゐる女、三輪車のペダルを踏んでゐる小僧、・・・

2012-05-22 13:24:13
@bukrd405

(承前)彼らは生活を持ってゐる・・・疲れ切つて、空家の様にガランとした家に帰る。妻は居ない。ベタベタと白粉を塗つて稼ぎに行つたのだ。妻は女給だ。そして私は、もう妻を捉えておく力もない・・・妻がまた泣き出してゐた。

2012-05-22 13:28:05
@bukrd405

私は小さく消えた喫殻を汚れた指の間に挟んだまま、じつと妻のふるへていゐる肩を見つめてゐた。どうしていいいかわからない。考へもしない。薄暗い部屋でただぼんやりと石ころの様に坐りつづけるほかなかつた」。

2012-05-22 13:29:22
@bukrd405

失業者だけでなく、就業中の者も多数は大変な状況にあった。「私は或るデパートの女店員です。店員と言いますと外見した処ちょっと美しくて楽な仕事のように見えますが、どうしてなかなかつらい苦しい仕事です。・・・朝は開店よりも30分早く店に出なければなりませんし、夜は閉店後30分、

2012-05-22 13:36:53
@bukrd405

(承前)今時でしたら6時まではどうしても居なければなりません。このように帰りの時間は非常に不規則ですのに、朝は1分でも遅刻したら大変です。遅刻時間を記入してその理由を書いた遅刻理由書というものを係長まで提出しなければならないのです。

2012-05-22 13:39:20
@bukrd405

もっとひどい事には夜業料を1銭もくれなかったのです。一昨年まではたった30銭ではありましたが、とにかく夜業料が出ましたが、昨年の春には『不景気』をよい事にして全然出さなかったのです・・・『恐慌だ』『不景気だ』と資本家共が勝手に造り出した行き詰まりの尻ぬぐいを私ども、

2012-05-22 13:41:27
@bukrd405

(承前)か弱い娘たちにおしつけようと言うのです。・・・次に衛生状態ですがこれが又見かけによらずわるいのです。・・・ひどいひどい土ぼこりの中で働く事です。ことに地下室の売場なぞでは開店して2時間もたつかたたない中に机も商品もざらざらになって仕舞います。・・・

2012-05-22 13:44:13
@bukrd405

こんな風ですから、私共店員の大部分が肺をおかされているのも不思議ではありません。私の働くデパートに30年居るとか言うおじいさんの話では、この30年間に肺をおかされて死んだ人が100人居るそうです」

2012-05-22 13:45:46
Чебурашка(類似品に注意) @tokoyo

大都市住民では無い日本人の大半は、「きっと何者にもなれず」生まれた土地で死んでゆくのが、普通の生き方だった。

2012-05-22 18:02:22
@bukrd405

@tokoyo 「何者にもなれず」生まれた土地で死んでゆく、ただそれだけのことすらできなかった人たちもいました。戦国時代に海外へ奴隷として売り飛ばされた人々、ブラジルへ移民した人々、満蒙開拓団の悲劇・・・

2012-05-22 19:16:39
Чебурашка(類似品に注意) @tokoyo

生まれると同時に、「何者か」を知る前に殺された赤子たちも。@bukrd405 「何者にもなれず」生まれた土地で死んでゆく、ただそれだけのことすらできなかった人たちもいました。戦国時代に海外へ奴隷として売り飛ばされた人々、ブラジルへ移民した人々、満蒙開拓団の悲劇・・・

2012-05-22 19:21:24
@bukrd405

@tokoyo 間引きも遠くなりましたなあ・・・ 

2012-05-22 19:29:56
Чебурашка(類似品に注意) @tokoyo

@bukrd405 望まれて生まれた子供たちが虐待されるというのは、間引き以上に悲惨かもしれません。

2012-05-22 19:31:49
@bukrd405

昭和9年10月、岩手県最北端の二戸郡小鳥谷村奥中山の生活。「中どころの農家でも、何十年来手入れをしたことがなく、壁が落ちるがままに任されている。中には壁の代わりに古板を張っただけで、隙間風をいくらか防ぐために、外側に藁束をつるしたのもあった。

2012-05-22 19:33:08
@bukrd405

たいていは長方形で、大部分は土間になり、三分の一か四分の一に床が張ってある。県南の農家には畳があるが、ここらは畳のある家は一軒もない。三尺四方くらいの炉が切られ、山から拾ってきた木の根株がいぶっている。真黒にくすぶった自在掛けには、大きな鉄鍋が掛っている。

2012-05-22 19:35:07
@bukrd405

いうまでもなく、その中で大根の葉やシダの実が煮られているのだ。蒲団のある家は、まず一軒もないと言っていいだろう。極くいいのが、布で包んだ藁布団、それも掛布団はないのだが、一般には、それすらない。ただ床張りの片隅に、長いままの藁が置いてある。

2012-05-22 19:37:31
@bukrd405

赤ん坊があれば、部屋の隅っこのところに、直径二尺五寸くらいの、「エンツコ」と呼ぶ藁でこさえた飯櫃入れのようなものが置いてあり・・・よく見ると赤ん坊だった。・・・子供は驚くほど生れて、驚くほど死んでゆく。

2012-05-22 19:41:29
河童画伯 @umemen11

@bukrd405 家の父はエンツコに入って育ったそうな。昭和30年代。

2012-05-22 19:43:32