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こばわー(・∇・)!これでもれっきとした公家な忠顕です。今日は『もっと知りたい千種忠顕』と題しましてゲスト二人を呼んで宮方座談会を開催するぞ。じゃあゲストを紹介しよう。どぞ~ |襖|)スッ
2012-05-26 20:12:41忠顕:ああ・・・お固い所のお二人が来てくれましたね・・・(´A`)ハフゥ 藤房:何で溜息なんだ!私等が固いのではなくお前が浮付き過ぎなのだ!だから太平記にもあんな書かれ方をするのだぞ!? 忠顕:( -ω)プイ 藤房:忠顕ー!!!
2012-05-26 20:15:24師賢:ははは落ち着いて下さい藤房卿。 藤房:・・・まったく決断所で仕事をしていた時もコイツは態度が・・・ 師賢:まぁまぁ。今日は宰相中将殿について語り合う会なのですから。 忠顕:メインは俺(*・∇・*) 藤房:むう・・・
2012-05-26 20:16:25忠顕:じゃあ本題の前にゲストを軽くご紹介~ 藤房卿は宣房卿息、主上の近臣として活躍したけど建武元年に突然行方をくらましたんだ。新政に失望とも政争に巻き込まれたとも言われてるね(・ω・) 師賢:非常に残念です。
2012-05-26 20:17:22忠顕:そして7年後に失踪宣告が出 藤房:嘘をつくな! 忠顕:いいじゃないですか~ちょっとした民法知識ですよ(・ω・)せっかく現代で活動してるわけですしーちょっとは勉強しないと~
2012-05-26 20:19:04師賢:よいお心掛けですね宰相中将殿。 忠顕:いやぁ~(*´ω`*) 藤房:調子に乗るな!師賢卿もそこは感心する所ではないでしょうに。蛇足はいいから師賢卿の紹介をしなさい!
2012-05-26 20:19:23忠顕:はいはーい(・ω・)えー師賢卿は師信卿息、主上に代わって比叡山に登ったことはあまりにも有名だね。和漢の才に優れ、元弘の乱後は下総に配流・その地で病没。
2012-05-26 20:20:21藤房:諡名は文貞公。主上も惜しい才を失くされたものだな…。 忠顕:藤房卿しめっぽいですね(・∇・)アハハ 藤房:(イラッ) 師賢:宰相中将殿、話を進めますよ。
2012-05-26 20:21:34忠顕:は~い。師賢:では此処からは私が。まずは宰相中将殿の基本知識から。千種忠顕(ちくさ/ちぐさただあき)生年未詳~1336年6月 村上源氏 六条家出身。祖父は六条内府有房卿、父は権中納言有忠卿。お二人とも後宇多上皇に近侍しておられたのですな。
2012-05-26 20:23:31忠顕:そうそう。特にじい様は後宇多院の覚えが良かったらしくて。死の間際に院自らお見舞いに来てくれたそうです。父上は皇太子の邦良親王に近侍していましたね。皇太子の早期即位を目指して京鎌倉を何度か行き来していましたっけ(・ω・)
2012-05-26 20:24:23藤房:成程。主上とは相容れない立場にいたわけだな(*σvσ*) 忠顕:ちょ、何すかその顔文字!wwwwwイキナリおかしいでしょwwwww 藤房:何がだ?お前のまねをしたのだが(*σvσ*) 師賢:はははっ可愛らしいですね。では私もニコっと(・益・) 忠顕:ひっ!
2012-05-26 20:32:20師賢:本題に戻りましょう。宰相殿は父君とは相反し主上に近侍、笠置での討幕運動や隠岐への配流にも同行、さらに頭中将となり六波羅攻めの大将として合戦に参加。その後論功行賞では大国3カ国・多大な闕所を拝領、官位も従三位参議となったわけですね。
2012-05-26 20:32:55忠顕:(*`・ω・´*) 師賢:蔵人としての仕事の他新政下では一時期決断所の職員になったりとご活躍のようでしたが、新政の崩壊した1336年の正月に宣房卿とともに出家。6月には西坂本にて直義軍と合戦の末敗死。以上がざっくりとではありますが宰相中将殿の経歴になります。
2012-05-26 20:33:33藤房:目まぐるしいな。ちなみに参議=宰相です。忠顕は左中将も兼ねていたので宰相中将と呼ばれるわけです。 忠顕:かっけぇ(・ω・)ノ 師賢:それで、今回は・・・宰相中将殿の生年ですか。
2012-05-26 20:36:47藤房:師賢卿は1301年、私は1295/6年。忠顕の祖父殿は1251年、父君は1281年だとされているな。 忠顕:そうですね。加えて兄上(有光)は1310年と言われています。 師賢:すると宰相中将殿は1310年以降の生まれという事になりますね。
2012-05-26 20:37:49藤房:ただもっと早い生まれとの見解もあるようだな。1290年頃には出仕していたと。 忠顕:なら俺は1280年前後には生れていそうな勢いですね。主上と隠岐へ行った時には俺4,50代?名和さんと同期?(・∇・)パネェ
2012-05-26 20:41:29藤房:さらに考え様によっては1300年付近で生れたとすることもできるな。 忠顕:隠岐の俺アラサー(´ω`) 師賢:ふむ・・・先の祖父殿・父君の生年を採用しないとすればそうなりますが・・・ね
2012-05-26 20:42:18藤房:何か気になりますか? 師賢:僭越ながらいくつか・・・ 藤房:では師賢卿の発言の前に便宜上の区分として【1280年前後=①、1300年前後=②、1310年以降=③】としましょうか。師賢卿、続きをどうぞ。
2012-05-26 20:43:30師賢:では失礼して。以下主に①に関してですが、例えばご子息顕経殿が活躍なさるのは1352年辺り。だいぶ遅い気もしますね。晩年の唯一の子と申せばそれまででしょうが。
2012-05-26 20:44:08藤房:確かに。唯一の子というのもな・・太平記によればだいぶ派手に生活していたようだし( *σvσ)チラ 忠顕:ソコばっか強調される!(`皿´#)あと顔文字あってないし! 師賢:ははは(・益・)。忠顕:だから顔www
2012-05-26 20:44:36師賢:さらに傍系とは言え故内府のお孫が50代で少将・・・ですか・・・ 忠顕:その辺り中の人も判らないって悲鳴上げてましたよ。良くある事なのかなぁ・・・?ね?(*・∇・) 藤房:『ね?』じゃない(σvσ#)
2012-05-26 20:46:30藤房:ですが師賢卿、①又は②だと太平記の『弱冠の比より我道にもあらぬ笠懸~』は違和感なく読めますよね。弱冠=二十歳だから1300年位には武芸をしていたと。 忠顕:戦う公家+(・ω・)
2012-05-26 20:47:34