アンチ;オイディプチックコンシューマ
- L_O_Nihilum
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以前ドゥルーズの考察してたけど、「混濁」側ってよく読んだら「思考者を代表するもの」ってあるじゃんか…僕の馬鹿
2012-05-26 19:06:38そう考えると「ライプニッツ的モナド発生」ってとこで言ってる図式ってすごく身近と言うかわかりやすくなる
2012-05-26 19:09:45檜垣氏の見るドゥルーズ論って不思議。思考者=個体で、対象=理念になってる。つまり、人間側、思考し現象を意味づける側に理念をあたえず、むしろ海とか波とか雨とか炎とかそっち側に『理念』って言ってて、分化してるこっちは「個体」なのね まぁそれこそ、「欲望する機械」だってことだろうけど。
2012-05-26 19:12:10さて、そーいうところから整理するに:しかるに、雨の音はするけど、その音を聞いてぼくらは「あ、雨だ」って思うけど、理念たる雨さんたちはそう規定されることから逃げまくっている。なぜなら、その「雨の音に聞こえる音」って、数々の雨の粒がいろんなところに当たる音の集合であるからである。
2012-05-26 19:13:33夜天光さんが僕に話しかけてくれたように、雨の音は一様ではない。一様でなく、その在り方が明白でなく曖昧であるものなのに、これを僕らは「雨の音だ」って言ってまとめていて(そりゃ便利だし?)、でもそれでは当てはまらないものがどうしてもできてしまう。
2012-05-26 19:14:44そこで、音を示す言葉が僕ら側(檜垣の言う個体の側)のほうで増産されるわけだ。葉っぱにあたればぴとん、雨に当たればぽつん、と言う風に。そのぽつんとかぴとんとかしとんとかいろんな音の集まりが、所謂「あ、雨音だ」の「雨音」をやっとこさ構成している。
2012-05-26 19:16:14で、その「しとん」とか「ぴとん」とかもまた、じゃあその一粒一粒の音を精密に表現するものか?(当然そのために生み出された言葉ではあるんだけど)当然その問いにはノーと答えられる。雨音はそれでも表現されきらない。理念たる雨には未だなお残余ができちゃうのである。
2012-05-26 19:17:59日本語がよく「事細かな感情表現が多彩」とか言われる。おかしとかつきづきしとか。それは確実な当て嵌められる意味が存在しづらいってことだ。古語を現代語訳するときに「こんなニュアンス」って言いざるを得ないのは古語の形容詞がそれだけ多彩で曖昧な感覚のまま作られてるからで。
2012-05-26 19:19:23それもまさにドゥルージック★次元。それ、たぶん古語時代当初の彼らにとってもはっきり当てはまるものを選べてると思ってない(だからこそ絶妙に言葉を選ぶセンスが付く!)…詩人は「言葉の海から言葉をすくい上げるセンスがどう」って言うけど、その努力は言葉がそれだけ「曖昧」だから在りえる。
2012-05-26 19:20:40曖昧なのに、そこに確実性(みたいなもの?)をあるかのように、絶妙なセンスを想って選んだ単語を、短歌に読みこんだり、日記文学にしたり。で、思えば、その日記に言葉をあてはめるってことやってる人の心って、整理整頓された本棚のようになんか当然なっちゃいない。
2012-05-26 19:21:59人の心って、ドロドロしてません?整理されてないでしょ?心の整理、っていっても、まぁどっちらかっていうとドロドロであることに素直になるっていう整理というか。混濁∧明晰であらんとするディオニュシスト・個体たる私たち。
2012-05-26 19:26:12あきらか「雨」なものに向って、そんなドロドロの私らが志向しちゃう。「雨」って言いたいんだけど、それで表現しきれなくて「小雨」「大雨」「霞雨」「豪雨」「五月雨」「梅雨」「疎雨」って分化して、それでも収まりきらなくって以後ループっていうパラドックスの発生。
2012-05-26 19:28:15いっぽうで、そうやって「雨」の表現を多彩化していく。だから、現実化=分化。有限化するんだけど、それは無限小なものに対する敗北から生まれてくる。 判明だけど曖昧な理念(対象)「雨」←パラドックス発生←/→現実化=分化→明晰で混濁な個体(思考)
2012-05-26 19:31:20檜垣さんの本では思考者は理念じゃなくて個体だから理念って出てきたら自然の対象とかそっちのことなんだってしておかないと落とし穴に引っかかるw。本来的な言葉の使い方のイメージがこの点転倒してるw。てかドゥルーズもラカンもそうだが、東先生も言う――「フランス人は逆な言いかえが多い」。
2012-05-26 19:32:36「海のすべての水滴が、理念の事例である」(檜垣)。だから、雨の音が聞こえるとき、その粒の粒の粒の…という無限小のミクロのすべてが理念だ。そして私たちに言葉を生み出させる(檜垣のいう「表出」「現実化」)。そしてそれをやろうとする私たちの心の「奥」(内在性)がそのエナジーだ。
2012-05-26 19:34:45「詩人が海から言葉を選び出し掬いだす」っていうのはそういう「内在性(Virtuel)」からの現実化、そのさいのパラドックス発生からくる「ぴったりの存在しない、でもセンスを求める場」での言葉作り、言葉紡ぎの戦いの場所。
2012-05-26 19:35:44そこで言葉をこねくりまわし、「はっきりこれだ!」といえる「信念」(ここでは認識論上の信念とかじゃなくてホントに日常的な意味での。)みたいなのをもとに、言葉を紡ぎ現実化、つまり生産。生産して、また「余り」に気付いて、さらに生成&変化。
2012-05-26 19:36:59かくて詩も哲学も紡がれるのよね。哲学者や詩人の言葉が、妙に胸を打つのは、そういうところで言葉を戦わせたパワーがあるから。たぶんこのパワーってのが「強度」で、それに敏感なマゾボディーのことを「器官無き身体」とか言うんだろう。
2012-05-26 19:37:57でー、なにかを現実化しちゃう個体のぼくら…だけど。その僕らも、雨とかと同じで、原子とか粒子の集まりで構成されてるの。マゾ身体なのは、細胞の分裂様からみてても明らか。
2012-05-26 20:08:42で、雨や私もまた個体、現実化=分化の故に、種に分け切れない。分け切れない、っていうのは、だって、分ける(分化)…してもしても、だってその剰余が出来ちゃう。アリストテレスみたいな分類では、間に合わないものがどーしても出てくる。
2012-05-26 20:11:49むしろそうした剰余を生み出そうとするパワーが、個体を作ってるっていうパラドクス。己を形成するのは、己を消し去ろうとするもののことである。なんという、差異のパラドックス。
2012-05-26 20:12:53「自由で浮遊する差異が、種を進化させるのである」(檜垣)。まさに。それは種を、結局のところ、作ってしまう(羽根が生えれば鳥,鱗が出来れば魚ってぐあい…に。)でも、それは彼らが決めつけから逃れることによってできた結果に過ぎない。
2012-05-26 20:14:38思えば御宅の想像力、てか妄想ってそれだ。東浩紀はデータベース消費なんてことを言って、キャラにある記号の組み合わせからキャラが出来る、とか言ってたが、例えば動ポモで取り上げられてる所謂「綾波レイっぽいキャラ」の集まりにしたって、
2012-05-26 20:15:50