2012年5月28日

【三国志&中国史】左右の優劣

中国史での左右の優劣に関連したと思うツイートをまとめてみた。左右尊卑 右尊左卑 左尊右卑 サイト:歴華泉 http://rekishiizumi.web.fc2.com/
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松浦 桀 @HAMLABI3594

@maryflower 右のほうが上です。朱然と全琮を比べた場合、権威は大司馬にあるので全琮が上。権限は軍師にあるので朱然が上。朱然の名刺「謁」には、持節右軍師左大司馬當陽侯朱然とあり、大司馬より軍師を上に持ってきていることから、軍師の重みが伺えます。

2011-07-25 15:53:46
松浦 桀 @HAMLABI3594

@maryflower 施績が上大將軍右都護の時に丁奉は大將軍左都護。孫皓が即位すると丁奉が右大司馬左軍師、施績が左大司馬右軍師に。これは他者を都護に任命するためでは無く、2人を昇進させるための措置。基本的に都護で事足りるので陸抗を軍師にする必要が無かった。都護督と都護は同じ。

2011-07-25 16:28:00
松浦 桀 @HAMLABI3594

どうやら前軍師より中軍師のほうが上らしい。中→前→左→右→後か。

2011-08-04 18:35:26
松浦 桀 @HAMLABI3594

続きは・・・王級に命じて曰く「南のかた荊楚に当たれ。汝を五威前関将軍と作す」 王嘉に命じて曰く「北のかた趙燕に当たれ。汝を五威後関将軍と作す」 王奇に命じて曰く「東のかた鄭衞に当たれ。汝を五威左関将軍と作す」 王福に命じて曰く「西のかた戎狄に当たれ。汝を五威右関将軍と作す」

2011-08-18 20:57:05
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 いやでも、前後左右將軍のいるべき場所を考えていないのでどうなんでしょうかね。257年の姜維を大將軍と書いちゃうくらいだから、結構アバウトな感じもします。

2011-10-01 13:32:18
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 大都督は全軍に於ける護軍系統の最高権限の言い換えを示す「普通名詞」と解釈します。当時の護軍は権限が優先される順に、上大將軍右都護陸遜>大將軍左都護諸葛瑾>車騎將軍右護軍朱然>衞將軍左護軍全琮 と解釈します。通常は陸遜が大都督でなければならないのです。

2012-03-02 16:19:22
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 おそらく文中に登場する全奇、顧譚、顧承、張休、全緒、全端視点から見れば、左護軍の全琮は、相対的表現としての大都督ということなんでしょう。

2012-03-02 16:40:11
松浦 桀 @HAMLABI3594

呉は中護軍周瑜が最初。赤壁時に中護軍を分割して左督周瑜と右督程普。左督=左護軍。後に赤壁時の専断権の交錯の害を呂蒙が指摘。護軍を統制するのが都護。都護を統制するのが軍師。左右護軍、都護、軍師は、右が上位。左右は担当地区を示さないが、統制する諸軍の配置でなんとなく決まる。

2012-03-02 17:14:15
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594  問題に答えてないという。左都護の諸葛瑾が、右護軍の朱然を統帥下に置く大都督では無い理由は、荊州軍の総司令が右都護の陸遜だからです。でも、ここで長年抱えていた問題が出てくるわけで。

2012-03-04 04:28:25
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 『呉・蜀の都督制度とその周辺』(『三国志研究第一号』石井仁)に、左右護軍、ひいては左右都護、左右軍師に於いて、右を上位として左を下位とする理由が書いてあるのですが、

2012-03-04 04:33:56
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 で、『三国志研究』の続き。石井仁は「三国志」朱然伝「黄龍元年 拜車騎將軍 右護軍 領兗州牧」、全琮伝「黄龍元年 遷衞將軍 左護軍 徐州牧」から、衞將軍より車騎将軍のほうが上位であることを理由として、対応する左右護軍も右を上位と結論づける。

2012-03-04 04:45:11
dara3 @daradara3594

右>>左だとすると、黄武年間は右護軍・輔国将軍の陸遜(西陵)がトップで、次点が左護軍・右将軍の歩隲(益陽か)で、この二人が諸軍を監護していた・・のかな?で、黄龍元年に陸遜が右都護、諸葛瑾が歩隲を飛び越え左都護。全琮・朱然が左右護軍。歩隲さーん、どこ行ったのー。中護軍に遷ったとか?

2012-03-04 05:40:41
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594  朱然と諸葛瑾で左右督として、陸遜を大都督としたのでしょうか。そもそも大都督は専断権の交錯が発生しないための措置なので、この二人ならば大丈夫だろうと孫権が判断したのかもしれません。ただ、周瑜と程普との江陵攻めと違い、

2012-03-04 05:50:20
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 いや・・・こんな理由で左右の上下決めちゃっていいんだろうかということを言いたかったんですけどね。ぶっちゃけ左右に上下無いのではないかと。

2012-03-04 05:52:03
dara3 @daradara3594

@HAMLABI3594 納得しちゃってました(笑) 調べ直したら丁奉と朱績の左右大司馬と左右軍師が完全にあべこべになっているので、やはり左右は二人置く為に分けたというだけで、権限に上下は無かったと見るべきなのですしょうね。

2012-03-04 06:12:48
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 結構ファジー。おそらく左大司馬ならバランス的に右軍師だろうみたいな。ただしつこいですが朱然の名刺だと左大司馬右軍師じゃなくて、右軍師左大司馬ですから、大司馬で軍師ではなく、軍師で大司馬で、軍師が大司馬よりも重い権限を持つことは間違いないでしょう。

2012-03-04 06:19:17
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594  「三国志」孫皎伝「權欲令皎與蒙爲左右部大督 蒙說權曰 若至尊以征虜能 宜用之 以蒙能宜用蒙 昔周瑜程普爲左右部督共攻江陵 雖事決於瑜普自恃久將 且俱是督遂共不睦 幾敗國事此目前之戒也 權寤謝蒙曰 以卿爲大督命皎爲後繼」

2012-03-04 06:22:22
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 「事決於瑜」ここがポイント。孫権は周瑜を左部督、程普を右部督に分けたけれども、決定権は周瑜にあったとする。

2012-03-04 06:24:48
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594  周瑜は中護軍。当時、都護は無い。軍師は張昭だけれども、当時の軍師はアドバイザーとしての軍師。で、この間は中護軍を左右に分割して左部督を左護軍、右部督を右護軍と推定したのだけれども、実は違うのでは無いかと。

2012-03-04 06:35:07
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 理由は「事決於瑜」。右が上位であれば、左部督の周瑜を左護軍と比定すると、右護軍の程普より下位となる。周瑜が程普より上位であるのは部督の優劣では無く、護軍の上下有無に拠る可能性。つまり周瑜は中護軍のまま左部督となり、程普は護軍権を持たなかったと結論。

2012-03-04 06:40:17
dara3 @daradara3594

@HAMLABI3594 成程。呉主伝に「各々一万を領し」とあるので、周瑜と程普は左右督の権限で各一万人を指揮した。しかし中護軍も兼ねる周瑜は全軍の監察権を握っており、故に作戦等決定権は周瑜の手に合った訳ですね。早朝が付き合ってくださり、ありがとうございました。

2012-03-04 07:01:47
松浦 桀 @HAMLABI3594

@korekorebox @daradara3594 「 遣璣與弟璿詣洛陽為任 晉以闡為都督西陵諸軍事衞將軍儀 同三司加侍中假節領交州牧封宜都公 璣監江陵諸軍事左將軍加散騎常侍領廬 陵太守改封江陵侯 璿給事中宣威將軍封都鄉侯」

2012-03-04 11:27:25
松浦 桀 @HAMLABI3594

@daradara3594 で、2問目の回答。周瑜は210年に卒去。後任は魯粛ですが、南郡太守の後任は程普であり、権限を全て引き継いだわけではありません。中護軍の分割はこの時に行われたと推測します。つまり左護軍が魯粛で、右護軍が程普です。

2012-03-04 14:59:45
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