お菓子っ子さんの語る、董卓伝3~洛陽放棄まで~
- tetteikaikyou
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董卓と地方に散った袁紹一派の緊張が高まる中、先に動いたのは袁紹一派でした。洛陽から逃亡した曹操が兗州の陳留郡で蜂起。陳留太守は(郡【県相当】の知事)曹操と袁紹の友人の張邈。兗州刺史(兗州行政管区監察官)は劉岱。いずれも袁紹の友人である周珌らが主導した人事。実にわかりやすいですね
2012-05-28 20:56:35しばらくして、兗州管内の地方長官が一斉に蜂起します。曹操とあからさまに通じてた兗州刺史(兗州行政管区監察官)劉岱と陳留太守(郡【県相当】の知事)張邈、山陽太守袁遺、東郡太守橋瑁が蜂起。故郷の泰山郡で兵を集めていた鮑信も挙兵しました
2012-05-28 21:02:11豫州管内では、豫州刺史(豫州行政管区監察官)孔伷、陳王(国【県相当】を領土とする皇族の諸侯)劉寵とその宰相である陳国相(郡大守【県知事】相当職)である許瑒、潁川太守李旻が蜂起。張邈の弟で徐州広陵郡の太守である張超や、青州刺史(青州行政管区監察官)焦和なども挙兵しました
2012-05-28 21:11:11一方、中心人物である冀州の渤海太守(郡【県相当】の知事)袁紹は、冀州牧(冀州行政管区総督)韓馥が派遣した従事(州政府部長職)の監視によって身動きが取れずにいました。冀州を董卓側に繋ぎとめようと努力していた韓馥の下に三公(宰相)の名で董卓討伐を呼びかける文章が送られてきました
2012-05-28 21:17:58この文章は既に蜂起している東郡太守(郡【県相当】の知事)橋瑁がでっち上げた怪文書でしたが、韓馥は州政府の幹部を集めて対応を協議します。すると、別駕(総督の副官)が「挙兵すべきですが、他人が動いてからの方が良いですね」と答えたので、袁紹と手を結んで蜂起しました
2012-05-28 21:25:02袁紹は河内太守の王匡・かつての皇帝直轄部隊である西園軍の司馬(連隊長)から何進配下に移った張楊、南匈奴の単于於夫羅と合流して首都圏の河内に駐屯。兗州や豫州の軍勢とともに洛陽を包囲する態勢をとり、韓馥は後方支援を担当しました
2012-05-28 21:38:03冀州・兗州・豫州・青州の地方長官たちが挙兵して洛陽に迫っているとの報に仰天した董卓は、すぐさま袁紹のもとに講和の使者として閣僚級の高官5人を送りました。この期に及んでまだ和解の余地があると董卓は信じていたのですが、袁紹は有無を言わさず5人中4人を殺し、和解はありえないと宣言します
2012-05-28 21:45:48袁紹が殺害した使者の中には、広く尊敬されている名士も含まれてました。名士を使者に立てて説得すれば言うことを聞いてくれるかもしれないと、董卓は考えていたのかもしれませんが、見通しが甘すぎました。これで董卓と袁紹一派は完全に決裂したのです
2012-05-28 21:48:50北から反乱勢力の白波軍10万が、東からは兗州・豫州・冀州・青州の軍勢が洛陽に迫っている状況を見て、董卓は洛陽を守り切れないと判断。長安遷都を朝廷の高官たちに諮ると、ブレーンの周珌と伍瓊が反対します。袁紹の友人で、反乱に参加している地方長官の人事を行った人たちです
2012-05-28 22:09:40董卓は「立派な人を登用しようと思って、君たちに人事を任せたのに、用いた人間がみんな反乱したのはどういうことだ。君たちはまだ私を騙す気か。ふざけるな」と周珌と伍瓊を怒鳴りつけて処刑しました。洛陽から逃げた袁紹の指名手配を止めさせて野放しにさせたのも彼らなので、董卓の怒りは当然ですね
2012-05-28 22:14:56董卓の激怒ぶりを見て、遷都反対派の中心だった太尉の黄琬、司徒の楊彪(ともに副首相)は意見を取り下げ、長安遷都が決議されて、朝廷は長安に移り、洛陽に残った董卓と配下の軍隊は宮殿や市街地を焼き、市民を長安に強制移住させた後で、袁紹一派並びに白波から首都圏を防衛しようと試みました
2012-05-28 22:20:49最初に袁紹陣営の河内太守王匡が動き、董卓軍と対峙しました。密かに渡河した董卓軍に背後から奇襲された王匡軍はあっけなく壊滅。これに怯えたのか、他の軍勢はそれ以上進軍しませんでした。業を煮やした曹操が「董卓は恐れをなして洛陽を焼き払った。今こそ奴を滅ぼす好機だぞ」と意見を述べます
2012-05-28 22:26:05実は蜂起した袁紹一派の有力者の中で軍功を立てたことがあるのは曹操だけです。他の人は官僚か、政治活動家でした。袁紹一派の軍事経験の乏しさは、董卓軍にも見透かされていました。軍事経験の差を王匡軍の壊滅で目の当たりにしたのも、袁紹一派が進軍をためらう理由だったでしょう
2012-05-28 22:31:09そこに唯一の軍事のプロである曹操が「今なら董卓に勝てる」と太鼓判を押したのです。曹操と鮑信、張邈配下の将衛茲が洛陽の重要防衛拠点である成皋を攻略に向かいますが、途中で董卓軍の中郎将(近衛司令官)徐栄に遭遇して戦闘になります。一昼夜の戦闘の末に曹操は徐栄に敗北して壊滅しました
2012-05-28 22:40:37この戦いで鮑信の弟の裨将軍(軍司令官)鮑韜、張邈配下の将衛茲が戦死。鮑信は重傷を負い、曹操も死を覚悟するほどでした。しかし、曹操軍とこれほどの激戦を一日中続けた徐栄軍もおそらく相当な損害が出ていたのでしょう。「酸棗を攻略して兗州の軍勢を壊滅させるのは困難」と判断し、兵を引きました
2012-05-28 22:49:39こうして袁紹一派が敗北し、董卓は洛陽防衛に成功するかに見えましたが、思わぬところから伏兵が登場しました。長沙太守(郡【県相当】の知事)孫堅が、洛陽から逃亡した後将軍(中央軍司令官。閣僚相当職)袁術、江夏太守劉詳とともに董卓に反旗を翻し、洛陽に迫っていたのです
2012-05-28 22:53:48長江の南の長沙郡の太守(郡【県相当】の知事)孫堅は、当代きっての名将と名高い人物です。代々郡の役人を務めた家の出で、10代で県(市相当)の役人になりました。一族の孫香は郡の名門が就任することが多い功曹(郡【県相当】の人事部長。現地採用職員トップ)なので、地元では良い家の出でしょう
2012-05-28 23:03:54地方の賊の討伐で武名を馳せた後、県丞(副市長)を務めていた孫堅は、黄巾の乱が起きると右中郎将(近衛司令官)朱儁の軍の佐軍司馬(連隊長)に起用されて大功を立て、別部司馬(独立連隊長)に昇進。涼州の反乱討伐の司令官に任命された司空(副首相)張温の参軍事(参謀)に起用されました
2012-05-28 23:14:46この人はもともと官僚で軍事経験がないせいか、司令官としては冴えない人だったようです。孫堅とともに張温の参軍事(参謀)を務める陶謙は、張温を無能と批判しているし、実際に用兵も拙劣でした。だから、歴戦の軍人である董卓も張温を軽く見ていたようです
2012-05-28 23:20:35ある時、張温が董卓軍を召集したら、時刻に遅れた上に謝罪もせずに威張った態度を取っていました。孫堅は「董卓はどう見てもやる気があるとは思えない。その上司令官を舐めきっている。処刑して軍規を正すべきだ」と進言しましたが、張温は「董卓の軍がいなければ戦えない」と却下しました
2012-05-28 23:23:53後日、董卓はこの時の戦役を振り返り、「張温に『周慎じゃ荷が重いから、誰かを援護に向かわせたほうがいいですよ』と俺が言ったのに聞かなかったんだよ。そんで、周慎に孫堅が良い作戦を提案したのに聞き入れずに負けたなあ。周慎が孫堅の言う事聞いてたら、涼州の反乱は治まったのにね」と言ってます
2012-05-28 23:33:47孫堅に批判された董卓の態度の裏には、「張温の奴は戦争ってもんをわかってないね。やってらんないよ」という気持ちがあったんじゃないかと思います。そうやって現場が上をバカにするのは緩みの元なので、孫堅が怒るのも無理はないですが、無能な偉いさんにうんざりしてる董卓の気持ちも理解できます
2012-05-28 23:41:18孫堅の話に戻ると、彼はやがて長沙郡の太守(郡【県相当】の知事)に昇進。長江南部の賊を平定した功績で烏程侯(県【市相当】を領土とする最高位の貴族)の爵位を授かりました。時に32歳。代々太守を務めるような名家の出でも太守になるのはだいたい50前後。孫堅の出世の破格ぶりがわかりますね
2012-05-28 23:50:50董卓の歩いたコースを大幅に近道したような天才武将の孫堅が董卓に反旗を翻します。北上して日頃から不仲だった荊州刺史(荊州行政管区監察官)王叡を殺害し、さらに南陽太守(郡【県相当】の知事)張咨を殺害して、彼らの兵を奪いました。張咨殺害には江夏太守劉詳も協力しています
2012-05-28 23:57:53南陽太守を殺害した孫堅とその協力者の劉詳がさらに進むと、洛陽から逃げてきた後将軍(中央軍司令官。閣僚相当職)袁術と出会い、手を結びます。袁術は孫堅を破虜将軍(方面軍司令官)、豫州刺史(豫州行政管区監察官)に推挙。孫堅は豫州に進撃し、袁術が南陽から後方支援を担当することになりました
2012-05-29 00:04:26