- korekorebox
- 2058
- 0
- 0
- 0
192年 長安リカク政権発足。馬日テイ派遣 193年 袁術が曹操に打ち破られ揚州に逃げ込む。曹操徐州進攻。袁術は揚州に逃げ込むが刺史の陳温に拒否され戦争状態に突入。徐州への援軍は難しい状況だと思う。
2012-05-13 08:37:24「孫策」193年 江都から叔父の呉景がいる曲阿に移住。(理由はどうでもいい) 194年 袁術の居る寿春に出仕 徐コンの指揮下に入り廬江攻撃(195年かもしれない) 195年 陶謙・馬日テイ死去 献帝長安から脱出 このため徐州・揚州の馬日テイ(朝廷)に従ってた人が袁術から離反
2012-05-13 22:04:52@HAMLABI3594 なんとなく陶謙や劉ヨウって、袁術やリカクに従ってたというより朝廷に従ってたと見たほうがいいと思えてきたんですよね。
2012-05-13 22:08:03@kashiggggg 太守とかの任命権を持つ節の持ち主ですから、その人から任命されれば朝廷からの正式な任命と認められるんですごいと思います。
2012-05-13 22:10:38@korekorebox 演義じゃほとんど触れられてないもんですねえ。節とか見たこと無いけどw 馬日テイ…どんな人となりだったのかなあ。
2012-05-13 22:13:33@HAMLABI3594 朝廷の誰か個人というより、正式に官位とか任命してくれる所に従ってたんだと思います。献帝は195年の冬に長安脱出して196年の春に洛陽に到着してます。その部分は、あまり陶謙には関係ないと思います。
2012-05-13 22:17:27@kashiggggg 袁術にいいように使われたかわいそうな人。袁術に迎合した二心を持った人。二つの見方があるみたいです(ノ)・ω・(ヾ)ムニムニ
2012-05-13 22:19:22馬日テイは、節で朝廷の代行者として正式に行政職任命を出せるので長安から遠い地方としては馬日テイ=朝廷と見ていてもおかしくないと思います。
2012-05-13 22:22:07「孫策」195年末~196年くらい 徐コン指揮下で袁術に叛旗を翻した劉ヨウ討伐に出陣。徐コンは母親連れてて離反する気満々。なんか知らんけど周瑜がくっついてきた。袁術からの目付けですか?(徐コンの気持ち)
2012-05-13 22:31:30「孫策」196年 丹楊平定 孫策でも元太守の呉景でもなく徐コンが丹楊太守に就任 袁術に忠誠誓ってそうな奴は要らんので理由つけて寿春へ送り返す(徐コンの気持ち) 孫賁・呉景・周瑜を寿春へ送還
2012-05-13 22:37:38「孫策」196~197年 呉に居た孫静ら一族が孫策と合流。たぶん、徐コンの指示で会稽征伐に向かう。(朱治やゼイ良も協力したと思う。)
2012-05-13 22:42:07「孫策」197年 会稽平定 袁術が曹操に敗れて逃亡 198年 呉景・孫賁・周瑜が江東に逃げてくる。呉景が丹楊太守。(徐コンがどっかいった。)
2012-05-13 22:49:05【今現在の考え】 孫呉は孫策が死亡するまで名目上は孫策が棟梁だけど、実質では徐コンと朱治が仕切っていた。孫策死後は徐コンが棟梁となるが、202年に徐コンが死亡したので周瑜と張昭が年若い孫権を担ぎ上げた。
2012-05-13 22:52:47【今現在の考え】徐コンという廬江攻めの憎い相手が死んだので、陸遜などが出仕する。こんなところかな(ノ)・ω・(ヾ)ムニムニ
2012-05-13 22:54:40陶謙は最後まで最後まで袁術派だったんじゃないかと思いながら武帝紀・董卓伝・袁術伝・陶謙伝・孫策伝・張昭伝・呂範伝を見比べてたら、袁術派って言うのはおかしくネ?って思えてきたので今の考えに至りました(ノ)・ω・(ヾ)ムニムニ
2012-05-13 23:46:07