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@bukrd405
カダフィ大佐が亡くなってからさっぱり話題に上らなくなったリビア。この国の歴史について少し語ってみます。
@bukrd405
先史時代のリビアにはベルベル人が住んでいたが、沿岸部にはギリシア人やフェニキア人が入植を始め、キュレネやトリポリといった都市が築かれる。シドラ湾は、かつてはギリシア人とフェニキア人との境をなしていた。キレナイカは、アフリカでギリシア世界に属する唯一の場所であった。
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土質と植物から見てヨーロッパ的であると同様に、地理的にもまた、トリポリタニアよりもむしろペロポネソス半島に近かった。紀元前七世紀に最初の植民を行ったドーリア人はキュレネを築いた。アポロニアはキュレネの麓に築かれ、海上貿易に役立った。
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キュレネの富は、後背地であるサハラとの交易よりはむしろ農産物の輸出によるものであった。ここはまた、一種神秘的な草シルフィオンの成長する土地でもあった。シルフィオンの輸出は、王の独占であり、王の財産を作った。
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シルフィオンがいかなるものであるかについては、歴史家もまた植物学者も判然とこれを説明することはできなかった。ただギリシア人がかつてそれからある種の強壮剤を作り、また今日では世界からまったく消滅したか、
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フェニキア人は、トリポリタニア沿岸地方に交易の中継地と商業地を設けた。すんわちサブラタ、レプティス・マグナ、オエア等のトリポリの諸都市である。これらフェニキア諸都市の繁栄は、スーダンおよびフェザーンのような遠隔な奥地との商業取引によって得たものである。
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フェニキア人の支配は、不毛にして都市もない海岸地方に沿ってシドラ湾にまで広がり、そして東方の貿易路を守った。レプティス・マグナはトリポリの唯一の年であったが、そのトリポリは、オリーヴ樹の栽培で富む奥地を所有していた。
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この地域がローマの支配下に入って後、農業がトリポリタニアで発達し始めたのに対し、キレナイカのほうは次第に衰退の道をたどっていった。しかし、農業の発達にもかかわらず、トリポリタニアの諸都市は、依然、貿易の中心であった。それらの都市は自ら産出するオリーヴ油を輸出した。
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そして市場を通じて、沙漠から発掘した宝石やスーダンの象牙や砂金等を売り出していた。キレナイカの衰亡は、内部の紛争と外部との競争とによる。ギリシア人とユダヤ人との間の絶えざる紛争は、これらの都市および富裕な農業地の平和な発展を阻止し、
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(承前)他方商業は、キュレネおよびアポロニアより、新興のアレクサンドリアへとだんだん移っていった。ペンタポリス(キレナイカ地方のキュレネ、アポロニア、ヘスペリデス、トクラ、トルメイタのギリシア系五都市)は本来の独立を失ったとき、プトレマイオス朝エジプトの属領となった。
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ローマ人の統治下において、トリポリタニアとともに結合されたキレナイカは、東ローマ帝国の分裂点となったが、他方、トリポリタニアは西ローマ帝国の統治下に残った。双方ともその繁栄時代は、商業的にも農業的にも、5世紀をもってその終わりを告げた。
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要塞を築いて掠奪遊牧民からの防御に努めたが、もはやこれ以上阻止することはできなかった。各所に散在していた農場は自然、都市以上に被害を蒙ることとなり、従って農業の衰微は、商業の衰微よりも早かった。次に、七世紀のころ、アラブ人による征服があった。
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彼らは略奪によってキレナイカとトリポリタニアを併合し、ローマに次いで二番目の政治的結合を行った。イスラーム勢力は、北アフリカから遠くスペインにまで広がり、商業も同時に繁栄した。顧みられなくなっていたキレナイカおよびトリポリタニアの古い貿易ルートは、
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(承前)東部のムスリムとその西の前哨地間の、宗教的かつ政治的要路の一部となった。さらに、イスラーム勢力の南進は、リビアの諸港を通るサハラ横断貿易を再び高潮せしめることになった。これらの港のうち、オエアはかなり繁栄し、東部隣接地との商業を一身に集め、
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(承前)レプティス・マグナは、砂の中に埋没してただ考古学者の発掘に委ねるほかはないことになった。商業はこのように、イスラームの統一的勢力下に繁栄したが、農業はおいおいに衰微していった。トリポリタニアにおいては、反逆的な、また乖離的な種族との絶えざる政治的・宗教的闘争があり、
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(承前)それゆえ農民たちをして、絶えず兵士たちに荒される農場を捨てさせることになったのである。キレナイカでもその港は、しばらくの間貿易を続けていたが、地方では遊牧民の牧草地追求のため、しだいに農業を放棄するようになった。
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4世紀におよぶ農業の漸減的衰微にさらに無秩序な4世紀が続いて、ただでさえ不活発な農業は完全に壊滅してしまい、商業は絶滅され、またキレナイカにおいては、かつて繁栄したギリシア人の都市をほとんど跡形もなくしてしまった。
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11世紀に入ると、ベニ・ヒラルおよびベニ・ソレムという凶暴な遊牧民群が波のごとくこの地を席巻した。そしてそこにずっと無政府状態が続いた。実際キレナイカはその存在を世界から忘れられてしまい、1835年トルコがとにかく権威らしいものを回復するまでは、
@bukrd405
(承前)ベドウィンの牧畜者と横行する掠奪者との小競り合いの場所にすぎなかった。ペンタポリス(キレナイカ地方のキュレネ、アポロニア、ヘスペリデス、トクラ、トルメイタ)の各都市は次々と消えていった。もっともトクラとトルメイタは、それぞれ12世紀ごろまで生き残った。
@bukrd405
しかしこれらもまた、14世紀までには消滅してしまい、その名が古い記憶として残っているにすぎない。今日知られている都市というのは、ただベドウィンのテントの一時的群居があるだけである。かつてのキュレネであった壊れた円柱や崩壊した石造物の中には、穴居民族が棲家を作っていた。
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そして、数世紀にわたって衰亡の一途をたどった後、歴史の車輪は、一廻り逆転した。キレナイカは、再び植民された。しかしそれは臆病で逃避的なやり方であった。14世紀に、トリポリタニアからの移民が、海岸に沿って渡航してきた。そして、退化しつつあったベレニス(ベンガジ)に足場を築き、
@bukrd405
高原地帯の不安な状態にもかかわらずそこに定着したのである。トリポリタニアからはまた、キュレネの東部沿岸のオアシスであるデルナにも植民がやってきた。そこで15世紀にスペインからきたアンダルシア出身のムスリム難民といっしょになった。
@bukrd405
これらが、19世紀まで生き残った社会形態のただ二つの中心地であったのである。第三の中心地は、1897年、ギリシア人の征服にあって亡命してきたクレタ島のムスリムがキレナイカに上陸し、ムスリムの植民地として、アポロニアのギリシア人の港を再建したときできたのであった。
@bukrd405
トリポリタニアは、キレナイカの運命の跡をたどってだんだん遊牧民の国と化していった。彼らはかつて穀物の稔ったその土地の上に牛馬を放牧した。農業は沿岸のオアシスだけに縮小したが、これらもまた騒擾の数世紀の間に、数においても広さにおいても退化してしまった。
@bukrd405
トリポリは、トルコの総督の居住地としてその都市生活を続けた。しかし、名はトリポリタニアの総督であったが、その権威は失われて、トリポリの城壁の外ではもうその影は薄かった。いたるところ、掠奪民族がほとんどなんらの制御も受けずに跋扈していた。
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