もう日付変わってる!まあいいや。今日は、松永貞徳という人物について、少しだけお話ししたいと思います、たいむらいんに垂れ流しておくので、目にはいった所だけでも知っていただけたら幸いです。なお、彼は僕にとって未来人だから資料見つつお話しします。
2012-05-31 00:05:06定家さんの「松永貞徳について」講座、はじまりはじまりー
松永貞徳は1571年、連歌師の松永永種の次男として京都に生まれました。関白九条稙通に和歌や源氏物語を学びました。稙通は祖父の三条西実隆から源氏物語を学び、注釈書「孟津抄」を著した人です。
2012-05-31 00:14:30ある時貞徳が「歌はどのようによみ習ったらよいのか」と尋ねました。稙通の答えは、「まず連歌を捨てなさい」でした。
2012-05-31 00:16:31連歌も和歌も同じような文芸であるが、連歌は、和歌の上達には初心者には障害になる。それは、連歌は前句というものがあって、それにつけて上手く読むことが第一だから、優雅でない言葉も使う。それを見慣れ、聞き慣れてしまうと、和歌を読む時にもその言葉を使うので、ことのほかに障害になる。
2012-05-31 00:19:45一方、和歌を読む時は、言葉を吟味して使うことが重要である。色々な読み方の教え方がいるけれど、はじめから難しいことを教えても初心者には納得できないから役に立たない。ただ下手でも作ってみることだ。雑多なごみを川に流すと最初は濁っているが、やがて水が澄んで綺麗なものが残るように(続)
2012-05-31 00:22:541594年、稙通が88歳で亡くなってからは、細川幽斎について学びました。細川幽斎は1534年生まれです。足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将です。1572年、三条西実枝に「古今集」の講釈を受け、二条家流の歌道を継ぎ、1585年には稙通から源氏物語の奥義も受けました。
2012-05-31 00:28:09貞徳著の「戴恩記」に細川幽斎が稙通から源氏物語初音の巻の講義を受け、三箇条の大事という秘伝を受けたことが記されています。それより早く、12歳の貞徳が稙通から源氏物語の秘伝を教わった時、父が祝賀披露宴を開き、妙蓮寺で連歌の興行を行った。その時稙通の発句で次のように読まれた。
2012-05-31 00:33:23発句は、花のようなこの子に更に道を分けて添えゆく将来があるなあと、若い弟子を祝っています。二句目は、春には霞に袖を引かれるように、師の導きに引かれてゆく私の袖です、という意味です。
2012-05-31 00:40:46三句目は、優秀な子供が飛び立って行く裾野に深い親心を持ったキギスが鳴いていると、貞徳を褒め、親の永種を思いやっています。この頃から幽斎と知り合いだったんですね。
2012-05-31 00:41:43師事してから、幽斎もまた稙通同様、「良い歌をよむ為には連歌を向こうへ置きなさい。」と教えました。さしあたり初心者はただ歌を朝晩によんで、一々の歌について師の指導は受けなくて良いと、幽斎の師である三条西実枝が言っていたと教えられた。この頃から貞徳は連歌から遠ざかります。
2012-05-31 00:45:12貞徳は、関ヶ原の戦いの後は佐野の歌学者になりました。幽斎の没後、京都に庶民の師弟向けの私塾を開き、息子の昌三と共に教えました。その頃から貞徳は日常の庶民の俗語をよみこんだ俳諧の連歌を積極的に作り始めました。
2012-05-31 00:49:19正式な連歌の座興に過ぎず読み捨てであったものが、特別の古典知識がなくても庶民がよめる文芸として流行り、弟子の松江重頼の手で初めての俳諧撰集「犬子集」が刊行して俳諧という一つの文芸形式が確立されました。
2012-05-31 00:52:23貞徳自身も、実作指導書「新増犬筑波集」や、俳論書、式目書などを著し、貞門俳諧を全国的に広めました。貞徳は、俳諧も広い意味で和歌の一つと考え、詠み方の作法をこまかく定めて、卑俗に落ちないようにさせました。
2012-05-31 00:55:53そして時計の針が2周しそうなころ。
うわ、お、定家さん定家さん、貞徳さんの生涯説明したばっかやんwwwwさすがうまれかわりの細川幽斎ご隠居様やwww
2012-05-31 22:33:01RT @pwrn8hoshi8pwrn: うわ、お、定家さん定家さん、貞徳さんの生涯説明したばっかやんwwwwさすがうまれかわりの細川幽斎ご隠居様やwww
2012-05-31 22:34:50実はですね、唯今ボクの幽斎師匠が風邪により寝込んでおられたてまつりますので、ボクこと松永貞徳めが幽斎玄旨こと現人神様の名代としてまことまこと僭越であり恐縮至極ながらもご報告に参上つかまつりました次第であります!
2012-05-31 22:36:35