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大正期の教育格差について

タイトル通りです
歴史 格差 大正時代 大正 教育 児童労働
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@bukrd405
大正時代には、(旧制の)中学校・女学校・実業学校・師範学校等の中等教育に進学できる者は、全国的にみて、大正4年で該当年齢の8%、大正14年でも15%程度で、町や村ではクラス中の1人か2人にすぎなかった。
@bukrd405
いわんや、大学・高等学校・専門学校などの高等教育機関へ進学できる者は、大正末でも大都市の有産階級のみで、全体からみれば1%足らず、しかも男子に限られていた。高等学校卒業者は大変な特権階級だったのである。
@bukrd405
大多数の一般人は、小学校の尋常科を卒業した12歳か、高等科を出た14歳で仕事に就くのが当たり前だった。さらに、義務教育といわれながら、実際に学校へ通えない児童がかなりいた。
@bukrd405
全国の公表就学率は99%にも達していたが、ある尋常小学校の例では、40名入学しながら無事卒業できた者は22名に減っている。この間に死亡や転校した子供もいるだろうが、多くは途中から学校へ来なくなった中途退学者である。
@bukrd405
大都市の底辺には、明治以来収入がほとんどなく住居も持たない「細民層」がかなりいた。その数は特定できないが、生まれた子供を学校へ通わせる余地は全くなかったから、子は最初から「不就学者」となった。親が出生届を出さないので就学通知が来なかった子もいる。
@bukrd405
学校へは手ぶらで行かせられない。授業料だけは義務教育化によって明治33年から免除されるようになったが、ほとんどの学校は後援会費とか父兄会費とかいった名目で金を求め、教科書は有料であった。
@bukrd405
東京市本所(現・江東)区役所の学務課では、大正期に「月謝」を集める仕事をしていたと証言する人もいる。完全な無料ではなかったのである。また弁当を作るにもお金はかかったのであろう。
@bukrd405
その子供たちは、家庭内の有力な稼ぎ手として、6つ7つの頃から働きに出た。商店や金持ちの家の子守りや雑役として「年季奉公」に入ると、親は何ほどかの前借金を得られたからである。しかし、それよりもずっと多かったと思われるのは、肉体労働者として小工場や大工場へ働きに出された子供である。
@bukrd405
明治年間の悲惨な教訓から、大正5年には日本にも「工場法」が生まれた。最低就業年齢は小卒年齢を考えて12歳と定められ、大正15年には14歳に引き上げられていた。だから大正5年以降は、尋常小学校という義務教育年限にある子供を雇うことはできないはずであった。
@bukrd405
ところが「軽易ナル業務」は例外としていたザル法だったから、中小企業では公然と10歳未満の子を使用している例が多く、昭和3年になっても静岡県遠江地方の織物工場で幼年工(12歳未満)を使わないところは皆無であったという。この法の下では、学校へ通うどころではない。
@bukrd405
大正時代の自由教育に対しては、今日のゆとり教育と同様の批判があった。成城の教師いわく、「これらの結果は、自由という名刀を使いこなす力が児童には未だ発達していなかったからかえって放縦となり怠惰者になった。
@bukrd405
あらゆる教育の基礎であるthree R,すなわち読み、書き、数える仕事さえできなくなってしまった。・・・心ある識者は子供を転校せしめた。他の中学校ないし七年制高等学校を志望する者は小学校の5年あるいは6年級の初めから転校せしめた。
@bukrd405
残留した児童で他の中等学校を志望した者の多くは悲惨な経験をなめさせられた」という。
Propagator @Miles_Gregarius
うちの親族には戦前にド田舎の漁村から早稲田大学に入った人がいるんだけど、凄いエリートだったのね
@bukrd405
@Miles_Gregarius 網元とか、ある程度の資産がある家だったのですか?
Propagator @Miles_Gregarius
@bukrd405 実家が料理屋で、地元では割と金持ちだったみたいです
Propagator @Miles_Gregarius
それでも戦中には学徒出陣で出征するハメになったんだけど
Propagator @Miles_Gregarius
その結構裕福な実家も話を聞くと、水道が通ったのが昭和30年代になってからでそれまでは井戸を使っていたという。戦前戦中のド田舎では水道が無いのが普通だったんだろうか。
@bukrd405
@Miles_Gregarius 明治32(1899)年には東京で全市への水道給水が開始されるようになります。しかし大正期でさえ、一般的には洗濯にはまだ井戸を使っていました。東京でさえこのような状態でしたから、田舎ならもっと遅れたでしょうね。
悪いおとうさん @oyaziMK2
まあ、大正期の教育の特色は個々の学校も去る事ながら、実に様々な教育実践が展開されたことにあると言えるように思いますね。自由奔放な教育実践もあれば、非常に厳しく統制する教育実践もありと・・・
@bukrd405
@oyaziMK2 そういう意味で、あの時代は富裕層や新中間層にとってはいい時代だったのでしょうね。文化も多様性があったし、新しい時代の息吹を感じることもできた。
悪いおとうさん @oyaziMK2
@bukrd405 そうなのでしょう。まあ、多様性という意味では戦前の方が意外に多様な社会だったと言えます。案外、「国そのもの」の統制も緩かったようですし・・・
Piichan @piichan
@bukrd405 第二次世界大戦まえ、おおくの国民が中等・高等教育をうけられないようにしたのは自由民権運動の教訓があったからではないでしょうか。へたに知恵をつけられると反抗してくるかもれないという感じで。英語教育を制限したのも情報統制の一環でしょうし。
@bukrd405
@piichan それもあるかもしれませんね。第一次世界大戦後、日本でも個性の自由な発達を要求する自由教育運動が盛んになりましたが、1930年代初頭には衰退してしまいました。
@bukrd405
@piichan 澤柳政太郎の設立した成城小学校では、ヘレン・パーカーストによって創立されたドルトン・プランの教育指導法を導入し、その自由な指導法に触れた生徒は学校が非常に楽しく感じられたそうです。ただし、成城小学校の授業料は月10円でしたから、庶民には縁がなかった。
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コメント

Jonaさん @jonathanohn 2012年6月2日
まとめを更新しました。
H.Takata @h_taka1126 2012年6月3日
本題からちょっと離れるが、水道が通ったのが昭和30年代~ってあるけど全国的に見ればいまだにこうゆう商品が成り立つぐらいには井戸のところは多かったりする。 http://kadenfan.hitachi.co.jp/pump/
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