鶴見俊輔『思い出袋』抜粋集

鶴見俊輔『思い出袋』岩波新書の抜粋集です。 私的まとめです。
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KK @kjokjo1930

「人間には、卒業しやすい型と卒業しにくい型とがある。日本の知識人の大体は前のほうだが、たまにあとのほうがいる。私が親しみを感じる、というよりも敬意をもつのは、あとの型の金子ふみ子である。」(鶴見俊輔)

2012-05-29 17:34:50
KK @kjokjo1930

「獄中で彼女の書いた記録『何が私をかうさせたか』(春秋社、一九三一年)は、今この時は、永遠の中に保たれるという直観をのべている。それは、キエルケゴールの説いた永遠の粒子としての時間という直観と響きあう。(1/2)」(鶴見俊輔)

2012-05-29 17:36:20
KK @kjokjo1930

「この人は、小学校、中学校、高等学校、大学という明治国家の工夫した学校の階梯を登らずに、自分の思想として、この直観をのべた。(2/2)」(鶴見俊輔)

2012-05-29 17:36:44
KK @kjokjo1930

「小学校から中学校へと、自分の先生が唯一の正しい答えをもつと信じて、先生の心の中にある唯一の正しい答えを念写する方法に習熟する人は、優等生として絶えざる転向の常習犯となり、自分がそうあることを不思議と思わない。」(鶴見俊輔)

2012-05-29 17:41:54
KK @kjokjo1930

「家の中のことを見とどける女の頭脳は、天下のことを見わける方法につながる、という考え方に立って、女性作家クリスティは、ポワロよりもマープルをひいきにしていた。平和運動についてもおなじではないか。」(鶴見俊輔)

2012-05-31 12:00:36
KK @kjokjo1930

「私は、自分の内部の不良少年に絶えず水をやって、枯死しないようにしている。」(鶴見俊輔)

2012-05-31 12:01:21
KK @kjokjo1930

「徳富蘇峰(一八六三-一九五七)は、初老にかかる五十五歳のときに思いたって、一万メートル競走に挑んで、八十九歳のときに『近世日本国民史』全百巻を完成した。偉大なことだとは思うが、決して真似はしない。」(鶴見俊輔)

2012-05-31 12:05:22
KK @kjokjo1930

「六十二年前、十九歳のとき、米国メリーランド州ボルティモア市に近いミード要塞の内部にある戦争捕虜(POW)収容所にいて、『交換船が出るが、乗るか、乗らないか』という決断を求められた。『乗る』と答えた。(1/3)」(鶴見俊輔)

2012-05-31 12:12:16
KK @kjokjo1930

「この戦争で日本が米国に負けることはわかっている。日本が正しいと思っているわけではない。しかし、負けるときには負ける側にいたいという気がした。(2/3)」(鶴見俊輔)

2012-05-31 12:12:23
KK @kjokjo1930

「もし勝つ側にいて、収容所の中で食うに困ることもなく生き残り、日米戦争の終わりを迎えるとしたら、そのあと自分が生きてゆく途は、ひらけてゆかないように思えた。それは、ぼんやりした見通しで、しかし六十二年たった今ふりかえっても、後悔しない。(3/3)」(鶴見俊輔)

2012-05-31 12:12:28
KK @kjokjo1930

「明治のなかば、新渡戸稲造は、日本で学校を終えて、米国のジョンズ・ホプキンス大学に留学した。社会学の先生に試問されたとき、スペンサーならば、どのページに何が書いてあるかまでおぼえているので、彼の用語についてどんなむずかしい質問にも答えられるつもりだった。(1/2)」(鶴見俊輔)

2012-05-31 12:19:24
KK @kjokjo1930

「ところが、『スペンサーをどう思うか』という質問をはじめにされたので、とても困ったという。そこから定義を墨守しない新渡戸流の学問の転回がはじまった。(2/2)」(鶴見俊輔)

2012-05-31 12:19:41
KK @kjokjo1930

「ルース・ベネディクトが日本文化を『恥の文化』としておおざっぱに規定したのに対して、作田啓一は、日本文化の流れに恥とは別に『はじらい』の感覚があることを、太宰治の作品の分析をとおしてくり広げた。」(鶴見俊輔)

2012-05-31 12:28:20
KK @kjokjo1930

「なぜ、日本では『国家社会のため』と、一息に言う言い回しが普通になったのか。社会のためと国家のためとは同じであると、どうして言えるのか。(1/2)」(鶴見俊輔)

2012-05-31 12:56:59
KK @kjokjo1930

「国家をつくるのが社会であり、さらに国家の中にはいくつもの小社会があり、それら小社会が国家を支え、国家を批判し、国家を進めてゆくと考えないのか。(2/2)」(鶴見俊輔)

2012-05-31 12:57:19
KK @kjokjo1930

「十年あまりたって、私はアメリカの捕虜収容所にいた。便所掃除のコツを教える、白いひげの上杉さんという老人がいた。私が当番にあたったとき、上杉さんは私に、『君は高等師範の附属小学校だろう』とたずねた。『そうです。』(1/4)」(鶴見俊輔)

2012-06-01 03:08:15
KK @kjokjo1930

「すると『君たちの小学校の校長先生が会いたいと言うのでジョン・デューイのところにつれていったことがあるよ。』そうか。朝礼の訓辞がみじかかったのは、デューイから来たのか。すれちがったときに、一対一で、生徒の名前を呼ぶというのも、デューイから来ているのか。(2/4)」(鶴見俊輔)

2012-06-01 03:08:15
KK @kjokjo1930

「明治に入って、プラグマティズムは、ウィリアム・ジェイムズを通して三人の知識人に深い影響をあたえた。夏目漱石、西田幾多郎、柳宗悦。その後、日本の哲学者のあいだでは、消えてしまった。(3/4)」(鶴見俊輔)

2012-06-01 03:08:15
KK @kjokjo1930

「だが、大学の哲学教授から遠く離れて、佐々木秀一という小学校校長の教育の中に、これはジェイムズではなく、デューイを通してだが、プラグマティズムは生きていた。(4/4)」(鶴見俊輔)

2012-06-01 03:08:16
KK @kjokjo1930

「『君が代』を式の時に歌う。敗戦後これを再開した時には、強制はしないと言ったのだが、今では、『君が代』斉唱の時に立たない教師を証拠として写真に撮っておき、戒告するという。(1/3)」(鶴見俊輔)

2012-06-01 03:08:16
KK @kjokjo1930

「日本の大学は、日本の国家ができてから国家がつくったもので、国家が決めたことを正当化する傾向を共有し、世界各国の大学もまたそのようにつくられて、世界の知識人は日本とおなじ性格をもつ、と信じている。(2/3)」(鶴見俊輔)

2012-06-01 03:08:17
KK @kjokjo1930

「しかし、そうではない。若い国家であるアメリカ合衆国においても、ハーヴァード大学は一八三六年創立、アメリカ合衆国の建国は一七七六年で、そのあいだのしばらくの年月は、米国の知識人の性格に影響を与えてきた。(3/3)」(鶴見俊輔)

2012-06-01 03:08:17
KK @kjokjo1930

「八十歳を越えて振り返ると、早読みした本の記憶は失われて、くりかえし読みとおそ読みの本は残る。くりかえし読みをした本を、何十年もへだててさらに思い出してみて、それでもおもしろいものは、やはりおもしろい。」(鶴見俊輔)

2012-06-01 22:07:02
KK @kjokjo1930

「すべて人間として生まれた者は、差別の対象とされてはならない。これは、憲法起草委員会に最年少の委員として加わった二十二歳のベアテ・シロタが書いた草案である。(1/2)」(鶴見俊輔)

2012-06-01 22:07:02
KK @kjokjo1930

「この草案は、日本国憲法の最終案には活かされていない。この欠落は、日本の戦後史に残ったさまざまの差別を温存させ、また加速させた。(2/2)」(鶴見俊輔)

2012-06-01 22:07:03