@schizoophrenieさん、@ueyamakzkさん、@kay_shiximaさんの「スキゾ極/パラノ極」に関するトークまとめ

「パラノ極で考えるフロイト=ラカン陣営と、スキゾ極で考えるフェダーン=タウスク陣営があって、中心におく病態に応じて、まったく逆の精神病論ができるのです。この二流派の対立の日本版が、いわゆる「西の木村敏、東の宮本忠雄」の対立なわけです」。なるほど!
パラノ 宮本忠雄 フェダーン 木村敏 ラカン タウスク フロイト スキゾ 精神分析
15
志紀島 啓 @kay_shixima
象徴界の二層性(父権的畏怖の層と単なるアルゴリズムの層)で考えるか、あるいは構造(アルゴリズム)とそこに充填されるエネルギー(これが入る事で畏怖が生じる)とするか、いずれにせよ。象徴界を二つに分けて考える必要がある。
上山和樹 @ueyamakzk
.@kay_shixima 分析の分節それ自体が特異的に生成してゆく、というウリ=ガタリ的モチーフは、どこに位置付けられますでしょうか。▼たとえばウリは、分裂病で垂直軸が機能しないことに触れた上で、「ぶらぶら歩き回る」ことの重要性を強調します。
志紀島 啓 @kay_shixima
@ueyamakzk 僕の考えでは分裂病と発達障害の分かれ目の一つが垂直性の認知の有無です。要素現象の圧倒性が垂直性をもたらさざるを得なくなると思います。
上山和樹 @ueyamakzk
.@kay_shixima 神経症圏の人が言う「神は存在する」と、精神病圏のひとが言う「神」は、要素現象の有無でちがいが検討できるとか、そういう話でしょう。【以下、しばらくこの話を続けます。連投すみません】
上山和樹 @ueyamakzk
ジャン・ウリは、象徴的なものがうまく機能しないことに対して、病院の敷地内などを「ぶらぶら歩きまわる」こと、そこでスタッフの制度分析によって、転移が準備されることなどを、どうしても必要な、重要なこととして語っているのですが、
上山和樹 @ueyamakzk
ウリやトスケイエスの言う「制度分析」が、ガタリの「schizo-analyse」を準備したことは間違いないので、ガタリを参照する以上、こうした制度概念のいきさつを、無視するわけにはいきません。
上山和樹 @ueyamakzk
またラカン的に、診断学&「一対一の面接」にこだわってしまうと、このあたりの技法論的探求の意義は、まったく見えなくなります。(現にラカンは、ウリに直接バカにするようなことを言ったらしい。)
schizoophrenie @schizoophrenie
@ueyamakzk 神経症の場合、神の垂直の作用があらわれるのは、セルトーが言う意味での神秘主義のような場合です。超感覚的なものの知覚ならぬ知覚が真理として押しつけられる、というやつ。『嘔吐』もその系譜かもしれません。それは垂直の力ではあるのですが、要素現象とは異なります。
schizoophrenie @schizoophrenie
.@ueyamakzk で、精神病にはスキゾフレニー(破瓜型)とパラノイア(妄想型)の両極がある。垂直の力がもっとも強力に働くのはパラノイアの極であって、スキゾの側では垂直の力があるとはいっても、言葉と物が同じ水準でまざりあってしまうために水平にみえてしまう。
schizoophrenie @schizoophrenie
.@ueyamakzk 結局、ヤスパース=ラカンの立場っていわば「パラノ分析」なんですよ。ラカンは精神分析を「指揮されたパラノイア」と言っているくらいです。パラノイアの初発症状は「何かが起こった。これは私に関係がある!」ですから。必ず垂直の力がかかわっているわけです。
schizoophrenie @schizoophrenie
.@ueyamakzk 逆に、そこからスキゾ分析の位置評定もできるようにも思えます。スキゾ(破瓜型)の重篤な例では「何かが起こった」ことを理解する前に、象徴界がすべて現実界になってしまう(言葉と物が同じ水準で扱われる)わけですから、その状態に”知らないうちになっている”。
上山和樹 @ueyamakzk
.@schizoophrenie 破瓜型と妄想型を整理いただいたことが、素晴らしく有益です。そういえば私は(フランス語に難のあるせいもあって)、ウリの技法論を読むのに、この二つを分けて考えていませんでした。いつの間にか、破瓜型の話として読んでいた。
schizoophrenie @schizoophrenie
@ueyamakzk 上山さんのモチーフは、知らないうちに生きてしまっている生=制作してしまっている作品をあらためて制度論的に問い返し可能性を拓くことだと理解しているのですが、これはたしかに精神病院で徘徊(ぶらぶら歩き回る!)・独語している破瓜病者、古い緊張病者を例にとれます。
schizoophrenie @schizoophrenie
.@ueyamakzk 一方、パラノイア(妄想型)では、知らないうちに生きているなんてことは基本的にはないわけです。彼らは自分に起こった「出来事」をはっきりと知っています。シュレーバーは発病時既に「女になって性交する」ということに自覚しており、その主題を最後まで生きたわけです。
schizoophrenie @schizoophrenie
念のため、シュレーバーの「女になって性交したらどんなに素敵なことだろう」という直感(要素現象)から、彼の最終的な妄想体系である「神の女となって世界を再構築する」までは、葉脈が大木になるようなフラクタルな関係なんですね。シュレーバーは彼に生じた真理をはっきり自覚している。
schizoophrenie @schizoophrenie
もうちょっと一般的な話にしておくと、これは精神病論の対象負荷性といえばいいのかわかりませんが、スキゾフレニーを中心に構築された精神病論と、パラノイアを中心に構築された精神病論は、きれいに対照をなします。このことは歴史が証明しています。
schizoophrenie @schizoophrenie
フロイト=ラカンは明らかにパラノイア重視です。精神分析の枠内でスキゾ極を重視したのは、パウル・フェダーンやタウスクです。要するに、彼らの理論では自我境界が崩れると精神病になる。小さい子供が親に嘘をつけないのは、まだ自我境界が確立されていないので、自分のことを親が全部知っている(続
schizoophrenie @schizoophrenie
(承前)と思っているからであって、精神病では子供の「つつぬけ」状態への退行が起こる、というわけです。これを精神病の考想伝播のメカニズムと考えるのが、フェダーンやタウスクの精神病=退行説です。一方、ラカンは「精神病を退行で論じるとか子供扱いもいい加減にしろ!」というわけですね。
schizoophrenie @schizoophrenie
パラノ極で考えるフロイト=ラカン陣営と、スキゾ極で考えるフェダーン=タウスク陣営があって、中心におく病態に応じて、まったく逆の精神病論ができるのです。この二流派の対立の日本版が、いわゆる「西の木村敏、東の宮本忠雄」の対立なわけです。
schizoophrenie @schizoophrenie
宮本忠雄の出発点は要素現象のひとつである「実体的意識性」です。これは、精神病の原発性体験としての一つの陽性症状ですから、どの時点から生じた出来事なのか確定できる。一方、木村敏は、陽性症状には分裂病の本質は一切あらわれていない、と考えるわけです。ここで両者の方向性はまったく逆。
schizoophrenie @schizoophrenie
木村敏:分裂病の現象学 http://t.co/IGrP2xJB 木村はむしろ陽性症状が生じる以前の現象学的事態のなかに分裂病の本質があると考える。木村が重視した病態をみてみると、やっぱり重症の破瓜型〜単純型なんですね。妄想型の妄想は分裂病に非特異的とまで木村は言い切るわけです。
schizoophrenie @schizoophrenie
で、このスキゾ極vsパラノ極の構図は、もとを辿ればクレペリン対ヤスパースに行き着くわけです。人格解体が早くに起こることを早発痴呆の要件とし、原発性体験をほとんど問題にしなかったクレペリンに対して、数回の診断面接だけで診断を確定するために要素現象に注目せざるをえなかったヤスパース。
志紀島 啓 @kay_shixima
@schizoophrenie @ueyamakzk ついでに言うとエネルギー量が低いという考え方もできるかと思います。D&Gが器官なき身体はエネルギーゼロだというのときはヘベがモデルでしょう。
志紀島 啓 @kay_shixima
@ueyamakzk @schizoophrenie D&Gのスキゾは妄想型がほとんど入ってないみたいですね。
schizoophrenie @schizoophrenie
『アンチオイディプス』ではパラノじゃなくてスキゾが重視されるわけですが、こういう半世紀に渡る理論的対立のなかでの転倒なんですね。しかしドゥルーズは、創造性という点に関してはヤスパース(パラノ陣営)を評価する。奇妙ではあるのですが、それは彼の表層=キャロル賞賛から実は一貫している。
残りを読む(9)

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?

ログインして広告を非表示にする
ログインして広告を非表示にする