- jonathanohn
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明治38年から昭和9年に至る30年間には、東北地方、ことに岩手県の壮丁は甲種合格率全国最高、その中でも農山村ほど多くの兵隊を生産、戦地に多くの兵隊を送り、多くの戦死者を出したのであった。
2012-06-03 07:51:34岩手県は昔から乳児死亡率全国最高か、あるいは最高に近い数値を示していたのであるが、生まれた赤ん坊の約半分が誕生日も迎え得ずに亡くなり、そしてさらに成人する前に何名かが亡くなる。従って壮丁検査まで生きのびた若者は、いわば“生き残りの勇士”ともいうべき若者たちなわけである。
2012-06-03 07:54:37@secilia2010 戦前の東北の農村の生活については、こちらも参考にしてください。http://t.co/410GSEln 昭和初期の『格差』について
2012-06-03 11:50:53『郷土兵団物語』(岩手日報社刊)でみると、太平洋戦争における第八兵団(岩手・秋田・山形・青森県の壮丁で編成)の総員1万8311名、うち戦死1万4875名。岩手県の壮丁だけで編成の歩兵第三十一連隊、総員2997名など2516名の戦死者を出しているのである。
2012-06-03 08:04:01@bukrd405 ありがとうございます。戦死者数にも絶句しました。本当に東北には日本の構造的な問題の皺寄せがいっていたのですね…
2012-06-03 14:03:27終戦前、軍隊を歌った数え歌に「一つとせ人も嫌がる軍隊に志願で来るよな馬鹿もある」というのがあった。“軍隊は嫌なもの”というのが一般社会の常識になっていたからであろう。だのに、農村では、それとは逆に、軍隊が懐かしい思い出として語られ、
2012-06-03 08:12:46(承前)また貴重な体験だった、と本人も地域社会の人々も高く評価しているのはなぜであろうか。①まず農村の貧しさ、生活の厳しさである。農繁期などの労働の厳しさは、軍隊における訓練にもましてひどかったし、衣食住の生活は遥かに劣っていた。
2012-06-03 08:14:41②さらに、軍隊の苦しさは、古年兵たちの凝視の中にさらされ、いささかの自由も与えられぬ絶対服従にあったと思われるのであるが、それが農村出身兵の場合、都会出の兵隊にくらべどうだったのか。親父の権力の強い農村家庭、地主小作・本家分家関係、階層秩序のはっきりしている農村、
2012-06-03 10:55:56(承前)閉鎖的な複雑な部落内の人間関係――そこでは人間が常に地域社会の凝視の中にある――の中に育った農村出身兵は、入隊以前において既に初年兵的体験を身につけていた。従って都会出ほどには、苦しさが身に応えなかったのではないか。
2012-06-03 10:58:09③軍隊にとられることを避けるために、醤油を飲んで体を弱らした――など話のある都会人、特にインテリ層、農村ではそれとは反対に「“甲種合格”って言われた時は、飛びはねたいほど面白かったス」という。この違いはどこからきたのであろうか。頭の働きよりも肉体労働がものをいう段階の農業では、
2012-06-03 11:01:19【RT言及】津山三十人殺しの犯人は、結核により入隊審査を不合格扱いになり、同じ部落の人間から蔑まれたことでフラストレーションを貯めていた、という話もあったな
2012-06-03 11:36:08④特に入隊を喜ばせたのは、官(治める者)民(治められる者)意識の強い日本で、官になろうと考えても容易には達せ得られない農民にとって、その官以上に権力のある帝国軍人となり軍服を着用できる。これが大きな魅力ではなかったろうか。
2012-06-03 11:07:36それは除隊の際に農民兵士のほとんどが軍服を新調し、階級章(それは国家的裏付けのある権威の象徴である)を輝かして帰郷したところに現れているのではなかろうか。しかも、その階級章が農村ではかなりものをいった。かつての貧農のオンジも、青年訓練所の指導員になり、やがて消防団の幹部、
2012-06-03 11:10:05(承前)在郷軍人会の分会長、村会議員などともなり得た。当時は軍に籍を置くことで、一百姓の身分では到底望みえない権力をふるえた。だから、その軍を笠にきて威張れた思い出話を得々と語る人もあるのであろう。
2012-06-03 11:14:31そんな話の一つに、街角で立ち小便をしていたのを警官にとがめられた除隊兵「帝国軍人になにを言うか!」と大喝一声、「ハッ」と警官が直立不動になった――という笑えぬ笑い話がある。
2012-06-03 11:15:37⑤一百姓という身分では他の人々からロクな扱いを受けなかった農民に、何といっても嬉しかったのは入隊と同時に、地方でどんないい職業、立派な経歴の人が入隊してこようが、それと平等な扱いが待ち受けていたことであった。
2012-06-03 11:21:46しかも、入隊以前に農村社会で初年兵的体験を経てきた農村出身者は、その減私奉公型――自己主張が弱く上の者のいうことをよく守る型――故に、“純朴”という誉め言葉で、都会出よりもむしろ歓迎された。つまりは実社会においての、農民以外の人々から加えられていた“どん百姓”視、
2012-06-03 11:24:09⑥しかも軍隊は、貧農にとっては、修業中もささやかながら給料をもらえるいい就職口的意味を持っていた。“人も嫌がる軍隊に”下士官志願をする者も、圧倒的に貧農の次三男だったといわれ、下士官も軍曹ともなれば“事務適任証”を与えられ、それが実社会においてもけっこう通用し、就職口も得られた。
2012-06-03 11:29:00以上総合して考えてみると、農村の人々をして軍隊に強い郷愁を抱かせたものは、もともと農村社会の内部に、軍隊的秩序がひそんでいた――ということもさることながら、その生き甲斐を軍隊以外に求めえなくせしめていた、当時の社会情勢ゆえではなかったろうか。
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