教育にSNSやインターネットを利用しよう、というレベルでなくて、もう教育の本拠地がこっちに成ってるように思う。何時迄上から目線で居るんだろうか。勿論社会的権威としての教育という意味では全くの塵屑だけれど。
2012-06-06 06:52:08@Kaya3728 教育の本質というよりは、教科書だよな。教科書としてインターネットを使うことはいいことだし、実際教師の中にはインターネットをコピーした資料を使う奴もいる。問題は、往々にしてリテラシがなく、嘘記事を生徒に配布する輩が後を絶たないわけだが・・・
2012-06-06 06:54:34@Kaya3728 それは大学の凋落であって、教育そのものがネットワークに来ているわけでもないし、大学に依る学習がそもそも必要でない分野も多くあるし。
2012-06-06 06:56:56インターネットアレルギー症の教育者層が教育に対してのその役割と弊害を語るとき、その習熟度であったり過渡性を無視してる事が多い。間違った利用云々というのは、絵本を読んでる子供に絵本は間違ってると怒っているようなもので、その正誤とリテラシーの進展はアナログもディジタルも大差ない。
2012-06-06 06:59:32@Kaya3728 問題は絵本を教科書として用いてもいいか、ひいては出典を絵本に求めても良いのかという部分だと思うけど。大学教育の最大の功績は、みなレポートが書けるようになるところじゃないかなw
2012-06-06 07:00:28@beepcap いえ、リテラシーという意味では無いです。其処も勿論ありますが、それこそ絵本の問題と同じレベルで些細な事で、結局教育として全く機能していないということを言っています。思考が介在している意味での学習です。
2012-06-06 07:02:26まぁ、Eラーニングってのはネット黎明期、パソコン通信の時代からあって、今まで「文字だけじゃだめだ!」「画像だけじゃ話がわかり難い!」「音声じゃ臨場感がなくて伝わらない!」「動画じゃ生徒が話を聞かない!」という歴史をたどっていたりして・・・
2012-06-06 07:02:35@beepcap そうです。大学が凋落していて、一部のこういったメディアには機構としてそん沿いしてるという話です。学習の意味ですが、技術の習熟ではなくて弁証法的な意味での学習です。学術とはそういうものだと認識してます、特に文系は。
2012-06-06 07:04:01@Kaya3728 ふむ、大学高等教育の特に文系の一部が、教育として真っ当でないことは確かだと思う。しかし、先程もいったが、それが凋落していることと、インターネットによる教育が有効であることはまったく別の話で切り離して考えないといけないと思う。大学の代わりはインターネットには無理
2012-06-06 07:04:34アレでっせ。受験勉強云々とか、講義をインターネットで放送しろとかそういう意味では全く無いですよ。そのタイプの学習の話ではないです。
2012-06-06 07:05:12@beepcap 無理というか、既に取って代わられつつあると思いますよ。それは、例えばハーバードの授業が見れるとかそういうこととは全く無関係です。コンテンツの話ではなくて機構の話で、且つ社会的なイコンとしての大学教育という意味でしたらネットが代替するのは仰るとおり全く無理です。
2012-06-06 07:06:58@Kaya3728 学術の本質の認識が、(特に僕が理系のせいであるかもしれないが)好奇心とそれに対する解の探求にあると考えている僕と、弁証法的な学習にあると考える貴方とでは、話が合わないのかもしれないなぁ。いや、もしかしたら同じ方向を向いているのかもだけど、弁証法が手段に見える
2012-06-06 07:07:01@Kaya3728 ふむ、弁償というか議論の場としてのインターネットはたしかに確立しつつあるし、それが大学よりも高度にやりとりする場合があるのも分かる。ただ、大学に対する期待をどの程度持つかは別にしても、やはりインターネットの弁士は海千山千で大学機能には届かない気がするなぁ。
2012-06-06 07:09:10@beepcap 好奇心と解の探求で正しいと思いますよ。そして、その過程は本質的には弁証法的なんだと僕は思っています。コレは、その学習が個人単位か機構単位かでも違うでしょうね。
2012-06-06 07:09:34@beepcap 議論というのが対人的な意味でしたら、学習に対して抑々からして余り必要でないように思います。そして、その海千山千というのも絵本と学術書というように習熟と選択の問題であるように思います。勿論、大学教授とネットでお話できるとかそういう意味ではないです。
2012-06-06 07:11:16@Kaya3728 そう、弁証法は手段であって本質じゃないと思うのよ。故に、弁証法は例えば一種の思考実験によって代替しうる。その意味では技術というか知識としてのインターネットは有用だったりもするけど、それも大学というより自習の置換えに過ぎないと思うなぁ。
2012-06-06 07:12:57インターネットの提供する「議論」は学習にたいしてなんの意味も持たない。それは、現実でも同じで、それを形式的に確保しようとしてるのがある意味で間違ってるんだろうと思う。形式的な議論程、それ自体の目的とするところからかけ離れた行為も無いだろう。
2012-06-06 07:13:53@Kaya3728 なるほど、たしかに選択の問題だ。 ただ、それはインターネット以前本屋でも可能であったことで、選択の労力を削ぐための学習機関なのではないかと思うけどね。 曰く「無理な教育をするためのシステム」だと。
2012-06-06 07:14:19@beepcap 僕は教育機関の役割は本質的には「学習の効率化」にあると思っていて、その意味でも学習というのは常に自習でしか無いです。そして、その次週の補助という意味でインターネットが大学よりも機構的に優れているとい話しです。コンテンツとしてはまだまだですが。
2012-06-06 07:15:26