仏教にみるこころとは~応無所住而生其心からジンバルまで

備忘録的にまとめました。
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流人光宏 見習い竹剣士 @lightningmitchy

@jiei_yushi 一つ質問があります。仏教が、傍からただの諦観とかニヒリズムと思われてしまわない様に気をつけている事ってありますか?

2012-06-07 02:42:29
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy 意識して気をつけていることはありません。理屈で諦観やニヒリズムと表現されようとも、仏教と向きあう事で、いきいきと生きて死ぬということができていれば、私はそれが仏教徒としての正しい体現の仕方といっていいのではなかろうか思っています。

2012-06-07 02:45:18
流人光宏 見習い竹剣士 @lightningmitchy

@jiei_yushi 宗教として教徒以外には如何に思われ様とそこは問題ではない、と言う事ですか?

2012-06-07 02:46:13
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy 仏教が「ただの諦観とかニヒリズム」と思われるとしたら、それは言語表現に極端に依存しているためでしょう。いのちのはたらきとか温かさとか、そういった生(なま)のものに触れて出たものではないと思います。我々は生き方死に方で、それを体現すべきと思います。

2012-06-07 02:50:42
流人光宏 見習い竹剣士 @lightningmitchy

@jiei_yushi 仰る通りなのですが、世の、世界の多くの人は書物や伝聞を基にのみ仏教とする人も多いわけです。史実、仏教でも相伝だけでなく多くの書物が書き残されて来たわけで。言葉と身体が離れてしまっている人へのアプローチは仏教側からはない、または出来ないというスタンスですか?

2012-06-07 02:55:35
流人光宏 見習い竹剣士 @lightningmitchy

@jiei_yushi 一文脱字してました^^;> 仰る通りなのですが、世の、世界の多くの人は書物や伝聞を基にのみ仏教と接する人も多いわけです。史実、仏教でも相伝だけでなく多くの書物が書き残されて来たわけで。言葉と身体が離れてしまっている人へのアプローチは仏教側からはない、

2012-06-07 02:58:06
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy いえ、そう断定はできません。私たちは六祖慧能が「応無所住而生其心」という句で悟りの機を得たことを信じています。しかし一方で「空=無=ニヒリズム、ペシミズム」という理解に与しません。ご存知のように、それは邪見・断見で、釈尊が明確に否定されました。

2012-06-07 03:02:13
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy 文字を理性や論理だけで理解するというだけの次元ではなく、人から人、大乗仏教ではさらに踏み込んで仏から仏へ(唯仏与仏)と表現しますが、生身の伝達、それは神秘的な体験下のものも包含しますが、そういうものを大事にします。概念操作だけのものは採りません。

2012-06-07 03:07:01
流人光宏 見習い竹剣士 @lightningmitchy

@jiei_yushi 「応無所住而生其心」について少し説明してもらえますか?今テーマの一つに龍樹がありまして、韓国人の先生が西洋古典のプラトンやアリストテレス等と比較しながら西洋的典型誤読についてその考え等議論しています。

2012-06-07 03:08:44
慈永祐士 @_jiei_yushi

禅語にまつわることは、人によって解釈も変わり、また模範的解釈というものが存在せず、難しいところがあります。また「解釈する」こと自体禅仏教では否定する人もいます。そういう前置きをした上で、少しだけ、私なりに、ヒントが得られるようなことがあれば。

2012-06-07 03:11:38
流人光宏 見習い竹剣士 @lightningmitchy

確かに言葉にする事自体が一つの「囚われ」ですが、人はそれ以外の伝達手段を持たない、ぜひ宜しくお願いします。 RT @jiei_yushi: 禅語にまつわることは、人によって解釈も変わり、また模範的解釈というものが存在せず、難しいところがあります。また「解釈する」こと自体禅仏教では

2012-06-07 03:13:42
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy 金剛経の「応無所住而生其心」の語について、おおまかなところはググれば出てくると思います。「応に住する所無くして、しかもその心を生ずべし」と読み下します。この意味をどう受け止めたら良いか。

2012-06-07 03:13:18
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy 「こころ」というものは、自分のなかにあるか、そとにあるか。私たちの常識では、素朴に自分の「なか」にあると思いこんでいます。

2012-06-07 03:18:01
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy それでは、どこからが自分のこころの「なか」で、どこからが自分のこころの「そと」なのでしょうか。私たちには、この境界を見つけることができるのか。あるいは仏教的に答えは与えられているのか。

2012-06-07 03:20:29
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy 仏教的な模範解答は「色受想行識」、「色」が物質の意味で、最後の「識」が認識、つまり外界を認識するプロセスを示しています。般若心経にもこの語があります。

2012-06-07 03:22:22
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy 然し乍ら、この識は認識機能、原語ではVijunanaといい、こころではない。こころを表す原語はcittaで、両者が同じ物を指すのかどうかは、わからないのです。

2012-06-07 03:24:07
流人光宏 見習い竹剣士 @lightningmitchy

これ区別好きな西洋にはポイントかも。 RT @jiei_yushi: 然し乍ら、この識は認識機能、原語ではVijunanaといい、こころではない。こころを表す原語はcittaで、両者が同じ物を指すのかどうかは、わからないのです。

2012-06-07 03:25:42
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy こころの中と外、これは分けられるのか。そんなものは私たちのルールの決め方次第でどうにでもなる。これが答えになるでしょう。例えば白隠禅師は法華経を「これぞこころだ」と喝破したと言われ、一方で「こころなどというものはないと明らかに分かった」と云った。

2012-06-07 03:26:47
流人光宏 見習い竹剣士 @lightningmitchy

@jiei_yushi まさに、というか、僕自身は剣道なんかの経験も交えて腑に落ちてしまうのですが。西洋言語化すると対立表現になってしまったりするんですよね。なるほどなぁ。

2012-06-07 03:30:50
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy ご存知かもしれませんが、仏教には唯識という一学派があり、この学派は「一切はこころだ」という、仏教の中の「唯心論」であります。しかし唯心論的傾向はあれど「独我論」ではない。唯「識」ですから、認識作用のみ、という立場で考究します。

2012-06-07 03:29:13
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy 唯識的世界観では、唯心論同様、一切がこころと見る。しかし同時に仏教的な空、つまり「実体がない」というスタンスにも立脚している。世界には実体がない。なぜならそれはこころだから。こころは露の如く雷(いなづま)の如し。これも金剛経にありますね。

2012-06-07 03:32:40
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy さらに一歩踏み込むと、人間が先かこころが先か。ニワトリとタマゴ的な問いを設定した場合、仏教では「こころが先」という立場を重視します。唯識もさることながら、ダンマパダの第一節がこれを示すとされています。

2012-06-07 03:34:38
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy 「物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。 もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。 荷車をひく牛に車輪がついていくように」つまりこれをたとえではなく、本当にこころがすべての根本だと捉えたわけです。

2012-06-07 03:37:12
慈永祐士 @_jiei_yushi

@lightningmitchy ご存知のように、こころには「時間と空間」が「ない」つまり時間と空間に制約されないと捉えることもできる。しかし同時に「時間と空間」とは「こころ」が生み出したのだとも考える。

2012-06-07 03:39:42
流人光宏 見習い竹剣士 @lightningmitchy

@jiei_yushi 空即是色色即是空のそれと同じ様な捉え方でいいですか?

2012-06-07 03:42:46