@genjibosi 認知される観念も同様に重要となってくるのですよね。だから、非対称な責任と義務に感情と関係性の問題が絡んでくる。
2012-06-02 14:45:17@genjibosi そこでどうしても家族の問題と謂うのは複雑になってくるわけですが、現時点での個人的な結論めいたものを言うなら、親子関係や家族関係に定型のようなものを想定するべきではなくて、家族機能を中心において考えるほうが好いのではないか、と謂うことなんです。
2012-06-02 14:49:38@genjibosi 親子関係や家族関係を成立させる動機となる所有感や執着と謂うものは、極端に言えば自分が死ぬ場合に自分の所有物を手放したくないと謂う執着でもあり得ると謂うことなんでしょうね。
2012-06-02 14:51:07@genjibosi そう謂う部分はありますね。ですから、最小単位を規定する要件は家族機能で好いのではないか、と謂う意見です。
2012-06-02 14:53:39@genjibosi これはある種の人権論の問題でもあるんですよね。その国の文化や習俗によって社会的認知に振れ幅があるのは当然だろうけれど、それによって不幸な家族が発生するのであれば、その上位のレイヤーの基本的人権の規範から批判があり得るだろう、と。
2012-06-02 14:56:07@genjibosi 自分だけが育てていいて、自分がいなくなれば育てる人がいなくなって、それでは他人に厄介をかけてしまうから連れてく、じゃなくて?
2012-06-02 14:56:23@sunu329 うん。普通はそう考えるのですが、そういう可哀想なすがたは想像できても、自分がいなくても、幸せに育っていく姿は想像したくない。それは保護者である自分の存在理由を否定することだから。
2012-06-02 14:59:32@genjibosi たとえば、「母子家庭では健全な子供が育たない、家庭には両親が必要だ」とかその逆に「家庭において父親は本当に必要なのか」と謂う議論は、家族に定型が存在すると謂う観念に基づいた議論で、それがその定型から外れた家族を不幸にしていますよね。
2012-06-02 15:04:45@genjibosi で、多分その「定型」と謂う観念を成立させているのは個々の文化習俗や宗教規範だと思うんですが、その種の個別規範が、機能的に十全な個別の家族を不幸にすることは許されるのか、と謂う疑問があるんです。
2012-06-02 15:06:07無理心中を、子供一人置いていくと他の人に迷惑をかけるとか、可哀想な目にあわせるのが忍びないという理由だとするのは、「可哀想なのに殺せるのか?」とどうも腑に落ちないところが昔からあって、それより、親である自分がいなくても生きていけることを認めたくないという歪んだ執着のほうが納得いく
2012-06-02 15:07:10@sunu329 そういうのもありますね。だけど、自分の存在を消したいとおもっても、自分の存在をなかったことにはできないので実行しようがないです。
2012-06-02 17:35:38@chronekotei 既に夫婦関係は破綻しているのに、離婚を禁止されているために、結婚の形態を維持しなくてはいけない。それは不幸ではないか?ということですか?実体験というか自分のまわりの話になりますけど、そういう家庭は多いですが、そういうものだと不幸ともいいがたいですね
2012-06-02 17:46:23@chronekotei 不本意ながらも、その「規範」に収まっている安心感は他に替えられないものがあるので。ああ、でも、家庭の抱えている問題によりますね。虐待などの明らかに子供に悪影響やリスクがある場合に規範に拘るのは危険が大きすぎる。
2012-06-02 17:50:35@chronekotei あう、そうでしたか。両親が揃っていなくても、あるいは、親はどちらもいなくても家庭としての機能を果たしていればいいのに、両親がいて子供がいるという形を「定型」と定めることで非定型扱い「ふつうの家とは違う」と言われるのはどうよ?ってことですね
2012-06-02 18:19:53