お菓子っ子さんが語る、董卓伝7~董卓よ、永遠なれ~
- tetteikaikyou
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前回はhttp://t.co/4yJIQbNHにて、董卓が緻密にして壮大な外交戦略で反董卓連合を封じ込めたところまでお話しました。今回は最終回。董卓が歴史の舞台から退場するまでの話です。董卓好きの皆様には辛いお話になると思いますが、どうかお付き合いくださいませ
2012-06-11 17:17:50経済政策の破綻と洛陽失陥で低下した求心力を回復するために、警察力と軍事力による恐怖政治に傾倒した董卓。その甲斐あって反撃に打って出る力を蓄えることに成功したわけですが、水面下で董卓に対する失望と反感が広がっていました
2012-06-11 17:29:27密かに朝臣たちが結託して、董卓排除の陰謀を練り始めたのです。後漢書鄭太(鄭泰)伝によると、議郎(参事官)鄭泰と董卓の長史(官房長)何顒、黄門侍郎(皇帝秘書官)荀攸。何顒伝と荀爽伝によると、董卓の長史(官房長)何顒、司空(副首相)荀爽、司徒(副首相)王允
2012-06-11 17:44:01魏書荀攸伝によると、荀攸、鄭泰、何顒、侍中(宮中顧問官)种輯、越騎校尉(近衛旅団長)伍瓊。これらのグループが董卓を暗殺すべく、陰謀を練りました
2012-06-11 17:45:35何顒・鄭泰・荀攸・伍瓊は旧何進派の若手官僚で、董卓がブレーンとして重用した人たち。特に董卓の長史(官房長)を務めた何顒と、周珌とともに人事を担当した伍瓊は腹心中の腹心です。さらにこの二人は袁紹の親友でもありました
2012-06-11 17:49:05荀爽と王允は有名な反宦官の闘士。董卓によって引き立てられ、三公(副首相)のポストを得ました。つまり、董卓が信任して政権中枢に据えた人たちが董卓暗殺を図ったわけです
2012-06-11 17:55:30その理由について、王允伝は「董卓の禍がひどくなって、簒奪の兆しが見えた」荀爽伝は「董卓の暴虐が甚だしく、社稷(国家)が危うくなった」荀攸伝は「董卓は無道で、天下の人々は怨んでいる」と述べています。「董卓の恐怖政治を放置したら、国家が危うい」という危機感が彼らの動機になったわけです
2012-06-11 18:03:53計画に参加した人物の中で、伍瓊は長安遷都に反対して処刑されました。また、荀爽は長安遷都決定の三ヶ月後に病死しています。計画が持ち上がったのは、董卓と朝臣の間で最初の不協和音が生じた長安遷都提案の時でしょう。初平元年(190年)2月のことです
2012-06-11 18:12:53長安遷都で反対が起きた理由は、楊彪伝・黄琬伝などの記述を見るに「帝都を捨てたら、現政権の求心力が落ちて混乱が起きる」ということだったようです。董卓は混乱した政治を安定させることを期待されて政権に就いた人物なので、朝臣たちは「支持者の期待に背くな」と言いたかったのでしょう
2012-06-11 18:25:34かつて、董卓は「中常侍(皇帝侍従。宦官)張譲らは帝の寵愛をいいことに政治を汚して混乱させました。古の趙鞅は軍事力で君主の側の悪人を追放したそうです。私は兵を挙げて洛陽に入り、張譲らを捕らえて汚れた政治を清めようと思います」と宣言して、何進と宦官が争う洛陽への進軍を開始しました
2012-06-11 18:40:29そして、袁紹のクーデターによって混乱した洛陽から脱出した皇帝一行に遭遇した際に、兵を引くように言った大臣を「君たちは国を支える大臣なのに、王室を正すことができずに、国家を混乱させたじゃないか!そんな君たちが兵を引けと言える理由なんかないぞ!」と叱りつけています
2012-06-11 18:48:56董卓を動かしていたのは宮廷闘争に明け暮れて、民を顧みようとしない政治への純粋な怒りでした。名だたる清廉の士や硬骨漢、前途ある若手の俊英らが董卓政権に参加したのも、董卓の怒りに共感して、ともに政治を正そうという気持ちからだったと思われます
2012-06-11 19:00:57袁紹一派が挙兵した時も支持者たちは董卓に、造反軍に動じること無く敢然と立ち向かう強さを期待していたでしょう。しかし、董卓は動揺して長安遷都を言い出しました。そして、反対意見を押し切って遷都を強行します。そのことへの失望感が、支持者が董卓排除を考えるきっかけになったのでしょうね
2012-06-11 19:06:45王允、荀爽らは命を張って宦官と戦った筋金入りの闘士。何顒・鄭泰・荀攸・伍瓊らは若手反体制知識人として名を馳せ、何進の下で宦官政権打倒の計画を練った活動家。いずれも「無能な政権を打倒する」ということに躊躇しない過激派です。だから、いきなり暗殺という極端な方向に走ったのでしょう
2012-06-11 19:11:59荀攸、鄭泰、何顒、种輯、伍瓊らの董卓側近グループの計画と、何顒、荀爽、王允らの大臣グループの計画は、おそらくは連携していたと思われます。鍵になるのは両方に名前を連ねる何顒。彼は董卓の長史(官房長)で、職務の関係上、董卓側近と大臣の両方と連絡することができます
2012-06-11 19:17:03さらに、何顒は大臣グループの荀爽とは、死後に隣に埋葬されたほどの親友で、大臣グループの王允や側近グループの荀攸、鄭泰とは何進の府(個人オフィス)で同僚だった仲。伍瓊とは古くからの親友。まとめ役として最適の人物だったわけです
2012-06-11 19:21:44しかし、計画を思い立って間もなく伍瓊が処刑され、荀爽も病死してしまい、さらに洛陽に造反軍との戦いを指揮する董卓を残して、長安に朝廷が移ったために、計画は流れてしまいました
2012-06-11 19:26:17長安遷都後、洛陽で戦う董卓の代わりに政治を取り仕切ったのは王允でした。司徒(副首相)と尚書令(皇帝官房長官)を兼ね、事実上のナンバー2です。遷都に際して書籍や記録類を保全して整理し、様々な政策提言を行ったため、董卓は国政を王允に委ねて造反軍との戦いに専念し、蜜月関係を築きました
2012-06-11 19:33:14どうやら王允は長安に移ってからは、董卓暗殺計画を破棄して、協力姿勢を見せたようです。権力者に逆らって三度投獄され、処刑されかけたこともある王允は、董卓に媚びて変節するような人ではありません。董卓に政治を委ねられて、「董卓を倒すより、政権内部で政治を正していこう」と考えたのでしょう
2012-06-11 19:39:12董卓の長史(官房長)である何顒は、洛陽に留まって董卓を補佐したと思われます。皇帝側近である黄門侍郎(皇帝秘書官)の荀攸、議郎(参事官)鄭泰らは長安の朝廷所属なので、彼らもまた沈黙することとなります
2012-06-11 19:47:40洛陽で造反軍と戦う太師(皇帝の師傅)董卓の軍部と、長安にいる司徒(副首相)・尚書令(皇帝官房長官)王允の朝廷の二元体制は、とても円滑に機能していました。董卓は背後を気にせずに戦いに専念できたのです。この協調関係が崩れたのは、董卓が洛陽を失陥して長安に退いてからでした
2012-06-11 19:54:24董卓は長安に到着すると、王允に任せていた政治を自ら掌握し、自分の府(オフィス)に官僚たちを出向かせました。そして、近衛軍を一族や腹心で固めると、司隷校尉(首都圏警察長官)を使って不満分子を次々と粛清し、暴力を背景とした政治を展開。董卓と朝臣たちの間に、再び深い溝が生じます
2012-06-11 20:05:38まず、董卓の長史(官房長)何顒が動きました。再び黄門侍郎(皇帝秘書官)の荀攸、議郎(参事官)鄭泰らと結託して、董卓暗殺計画を練ります。彼らの計画は「董卓を殺害した後に函谷関を制圧し、皇帝を推戴して天下に号令する」というものでした
2012-06-11 20:11:16何顒はかつて袁紹の「奔走の友」と言われた人物でしたが、袁紹一派と手を組まず、自ら天下を狙うつもりだったようです。いつ袁紹を見切ったのかは不明です。あるいは最初から自ら頂点に立つつもりでいたのかもしれません
2012-06-11 20:18:21何顒は「父の仇を討てなかったのが残念だ」と言って病死した親友の代わりに、「巨万の富を蓄え、400頭の駿馬を持つ」と言われた仇を単身で討ち取って名を上げた人物。現在で言うと、400台の車を所有する大富豪に死んだ友の無念を晴らすために単身で挑んで討ち取ったのだから、好漢の中の好漢です
2012-06-11 20:28:18