- jonathanohn
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@bukrd405
伊予水軍と塩飽水軍のゆくすえについてである。ともに鎌倉、足利戦国にかけて海賊として威名をはせ瀬戸内海を二分したこの二つの水上勢力のうち、塩飽は廻船屋として江戸時代に生き延び、江戸経済に特異な役割を果たしたが、織豊時代をすぎると伊予水軍の行方は杳として知れなくなる。
2012-06-11 13:40:02
@bukrd405
戦争がなくなってから忽然と姿を消したといってよい。この二つの相違を見較べることは興味あることである。東の海賊の持っていた船が大きく、西のそれは小さくて廻船業に適さなかったためであるとも考えられる。
2012-06-11 13:41:35
king-biscuit
@kingbiscuitSIU
@bukrd405 ノシ 「林兼」=まるは、などは確か「活き舟」(生け簀を備えた舟)で大阪市場とつないだのが大きかった、と記憶します。流通のどの部分に結びつくかによっても岐路が分かれたのかな、と。
2012-06-11 13:46:27
@bukrd405
1637年の島原の乱に、船31艘、役加子349名を出して、戦具馬匹を大坂から島原へ運送してから、明治維新直前1864年長州征伐の広島出陣まで約230年間、塩飽水軍がいわゆる海上軍として活動する場面は失われた。
2012-06-11 16:39:05
@bukrd405
戦時輸送と巨大封建勢力のために奉仕してぼろい儲けを稼ぎだした彼らの操海術は、今やまったく平時経済と自分自身のために用いられねばならなかった。島中の山林田畑の富と領海から吸い上げられる冥加銀は、それにいくらしがみついてみたところで、彼らの生活を豊かにするほど十分ではなかったから、
2012-06-11 16:43:38
@bukrd405
(承前)海賊=水軍はこうして廻船業者に転移した。島原の乱が片付いて2、30年経ち、世の中がすっかり落ち着いてくると、商品流通が息づいてくる。ニシン、コンブ、米その他の海産物が、九州や北国から大坂に運ばれるようになり、一方大坂からの商品が地方へ運ばれていった。
2012-06-11 16:46:33