バーマンの「参加する意識」と発想言語について

慶應義塾大学SFC総合政策学部准教授の井庭崇さん(@takashiiba)によるモリス・バーマンの「参加する意識」と「発想言語」(アブダクション・ランゲージ)をまとめる形式についてのツイートまとめました。
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井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

さて、一昨日、眠くて中断した、バーマンの「参加」についての続きを書こうと思う。まずは、再ツイートから。

2012-06-14 12:42:11
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

モリス・バーマンは『デカルトからベイトソンへ』のなかで、近代の科学的意識とは別の意識として「参加する意識」(participation consciousness)について述べている。

2012-06-14 12:44:38
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

バーマンによると、参加する意識とは、「自分を包む環境世界と融合し同一化しようとする意識」(p.14)のことである。これに対して、科学的意識は、「自己を世界から疎外する意識」(p.14)であり、「自然への参入ではなく、自然との分離に向かう意識」(p.15)であるという。

2012-06-14 12:44:55
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

バーマンのいう「参加」(participation)とは、「自己の『内側』と『外側』が体験の瞬間において一体化すること」(p.79)である。それは「内と外、主体と客体、自己と他者とが、境界を貫いて結ばれること」である。

2012-06-14 12:45:27
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

バーマンは言う。「現代人にとっても参加する意識は、ごく日常的に現れているのだ。… 私にしても、たったいま、そのことを意識するまでは、タイプのキーを叩くことに没入していた。この文章を書いている「私」というものをまるで感じていなかった。」(p.79)

2012-06-14 12:45:49
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

そういうときは、「『私』が、『経験をする主体』なのではなく、経験そのものになる。」(p.79) という。

2012-06-14 12:46:14
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

この感覚は僕もとてもよくわかる。何かをつくっているとき、つまり創造においては、うまくいくとこういう状態になる。このことを、創造の観点からすると、創造に関与しているのは、人も世界もである。

2012-06-14 12:46:39
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

つまり、創造に取り組んでいて、それについて考えようとすると、社会的なレベルでの主体と客体というのは消えさり、一体化するということだ。(今日は眠いので続きは明日。)→ここからのつづき

2012-06-14 12:47:19
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

このバーマンのいう「参加」は、何かにコミットするという意味ではない。そうではなく、自分と世界の境界があやふやになり、その区別がなくなる(区別が重要でなくなる、その区別が本質的ではなくなる)ことを意味している。

2012-06-14 12:51:10
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

自分の経験を思い出して、イメージしてみてほしい。何かをつくることに没頭しているときのことを。真剣に何かをつくっているときのことを。

2012-06-14 13:03:02
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

そうやって没頭して何かをつくっているときは、いまつくっているものがカタチづくられ、成長していくことが、中心的な出来事となる。そのとき、その創造で起きていることこそが、主要な出来事になり、それ以外のことは周辺的な事柄になる。

2012-06-14 13:14:57
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

このとき、つくり手である「自分」と、自分がいる「世界」の境界・区別は、二次的な問題になる。創造にのめり込むほど、自分と世界の境界・区別は意識されなくなる。違う言い方をすれば、自分と世界はコラボレーションしているのであり、創造の企ての共謀者となる。

2012-06-14 13:22:59
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

あるいは、こう言ってもいい。いまつくっているものが成長していくのは、「自分」を含む「世界」が作用しているからだ、と。

2012-06-14 13:25:55
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

僕がバーマンの「参加」の概念を捉えるときに、一番わかりやすいのは、この創造に打ち込んでいるときの状態である。

2012-06-14 13:27:23
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

もう一度、強調しておくと、何かをつくることが、「参加」なのではない。つくっているときなどに、自分が世界に溶け込んでしまう(境界がなくなる、その境界が重要なものではなくなる)ことが、「参加」と呼ばれている事態なのだ。

2012-06-14 13:30:56
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

いまのことを僕の例でひとつ。3年前に、カオスの状態遷移ネットワークのなかにスケールフリーネットワークが潜んでいることを発見したときのこと。

2012-06-14 13:35:36
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

3年前のある日、カオスの状態遷移を試しに描いてみたら、なかなか複雑なネットワークであることがわかった。こういうときは、可視化だけでなく、指標でみようということで調べてみたら、次数がべき乗分布に従っていて、スケールフリーネットワークだった。

2012-06-14 13:43:44
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

これはすごい!と思い、条件を変えて調べてみたら、どの値でもスケールフリーであることがわかった。それならば、カオスの他の関数(写像)ではどうか?と調べてみたら、他の関数でもスケールフリーのものがみつかった。

2012-06-14 13:47:57
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

この経験を振り返ると、発見の連鎖こそが中心的な出来事であったと感じる。状態遷移ネットワークは、僕が見出す前から、その関数に潜んでいたといえる。しかし、ある関数を状態遷移ネットワークでみるという必然性はないから、僕が新しく生み出したと言えないこともない。

2012-06-14 13:51:46
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

こんなふうに、数学者や科学者は、世界に潜む法則性を発見(discover)する。discoverとは、覆い(cover)をとる(dis)ということである。ある面では、世界に潜んでいたものであり、別の側面では、人間がつくりだしたものでもある。

2012-06-14 13:59:31
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

このことは、芸術家にも言えるだろう。例えば、彫刻家が、素材と“対話”しながらつくっていく、というねがわかりやすいだろう。頭のなかにあったものを外化するというのではなく、世界とコラボレーションしながら、ものがつくられている。

2012-06-14 14:04:20
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

いま書いてきたことを、僕の創造システム理論的に言うならば、創造における発見の連鎖(のオートポイエーシス)が活発なとき、それ以外はすべて環境側に位置するものになるということだ。発見という水準においての区別が重要なのであり、主体と世界という区別は意味を失うことになる。

2012-06-14 14:07:54
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

これまで、創造に打ち込むときにある「参加」について書いてきた。しかし、これ以外にも「参加」が生じることがあると思う。それについては、また後ほど。

2012-06-14 14:12:26
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

さっきのモリス・バーマンの「参加」の話の続き。

2012-06-14 15:39:42
井庭 崇(いば たかし) @takashiiba

バーマンのいう「参加」(participation)とは、「自己の『内側』と『外側』が体験の瞬間において一体化すること」(p.79)であり、それは「内と外、主体と客体、自己と他者とが、境界を貫いて結ばれること」であった。

2012-06-14 15:40:44