渡邊芳之先生ynabe39の「われわれは自分にできたことはなんでも「誰でもその気があればできる」と思いやすいが,実際にはそうでないことも多いと思う。」

「自分以外の人にも自分と同様の知性があるはず」と信じること自体は「良識」なんだけれども,ときにはそれは「自分が生まれ育った環境やそれによって与えられた能力の特権性を忘れる」ことにもなる。 「私は頭が良いです」「自分は賢いです」と言いたくてしょうがない人が嫌い,というのは相当に広く共有された感情だと思う。それがわからないのが頭の良い人の欠点。by 渡邊芳之
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馬場正博 @realwavebaba

人は自分より愚かな人間を愚かと正しく認識できるが、賢い人をより賢いと認識するのは難しい。結果、大半の人は大半の人が自分より愚かと思っていている。嘆かわしいとも言えるが、進化論的に劣等感の塊では生存競争を生き抜けなかったのだろうと考えると、悪いことではないのかもしれない。

2012-06-14 12:59:59
中村甄ノ丞あるある早くいいたい @ms06r1a

将に放射能は穢れであるな。関わった者を河原者にしてしまう。

2012-06-17 14:14:35
中村甄ノ丞あるある早くいいたい @ms06r1a

やっぱりそうだ。自分が放射線を理解出来ているから他人もソレなりに理解出来ると思っている人だった。この人が穢れ概念を理解出来ないくらい他人も放射線を理解出来ないと想像出来てない。

2012-06-17 17:19:47
中村甄ノ丞あるある早くいいたい @ms06r1a

学者さんに多い「正しく理解すれば怖くない!」という立場を、手前は無理があると考えている。だって理解してないのは理解出来なかったから理解してないんであって、それを正しく理解すれば、って貧乏人に「お金があれば大丈夫!」というようなもんだから。

2012-06-17 17:35:21
渡邊芳之 @ynabe39

馬鹿だと救われない,というのは近代市民社会の暗黒面だよね。

2012-06-17 17:37:27
渡邊芳之 @ynabe39

「理解しようとする」ことと「理解する」ことにほんとうに因果関係があるだろうか。私たちは単に「理解した人」を「理解しようとした人」と呼び,「理解しなかった人」を「理解しようとしなかった人」と読んでいるだけではないか。

2012-06-17 17:43:01
渡邊芳之 @ynabe39

この2つを別々の変数とみなすためには「理解する気があったが理解しなかった人」や「理解する気がなかったが理解した人」の存在が必要だが,そんな人を特定することができるだろうか。

2012-06-17 17:44:26
渡邊芳之 @ynabe39

われわれは自分にできたことはなんでも「誰でもその気があればできる」と思いやすいが,実際にはそうでないことも多いと思う。

2012-06-17 17:46:42
渡邊芳之 @ynabe39

いずれにしても「理解しない人」に「お前には理解する気がないから理解できないのだ」と言うことにはほとんど意味がないだろうと思う。

2012-06-17 17:48:59
渡邊芳之 @ynabe39

まあ「自分以外の人にも自分と同様の知性があるはず」と信じること自体は「良識」なんだけれども,ときにはそれは「自分が生まれ育った環境やそれによって与えられた能力の特権性を忘れる」ことにもなる。

2012-06-17 17:51:05
渡邊芳之 @ynabe39

「理解する気がないから理解できない」みたいな言葉は典型的に「学校の先生がいいたがる言葉」である。そりゃあ学校の先生がそれを信じなければ学校にならないのだけど,社会が全部学校であるわけではない。

2012-06-17 17:52:27
fsxtnkn @fsxtnkn

.@ynabe39 そもそも「理解する」対象が議論の余地なく特定できることは「学校的」な前提で、一般的な前提ではないと言えそうなので、因果関係を問題にする以前にそういう立論自体難しいと論じられそうな感じもしました。

2012-06-17 18:01:38
渡邊芳之 @ynabe39

そもそも学校以外の場では「理解しない自由」も最大限に認められなければいけないだろうしなあ。

2012-06-17 18:03:36
浅生楽@チーズ担 @Asailuck

「話してもわからない」と思うことの暴力性はわかりやすくすぐに現れるが、「話せばわかる」と思うことの暴力性はわかりにくく、後からじわじわと現れてくる。なので、内心「話してもわからない」と思っているが、非難を避けるために「話せばわかる」と言っている人は結構いると思う。

2012-06-17 18:03:50
渡邊芳之 @ynabe39

そもそも相手が「論理的にわかりやすく説明した」からと言ってこっちが「理解する」義務なんかないだろう。

2012-06-17 18:06:23
渡邊芳之 @ynabe39

たいていのことについては頭のいい人は「論理的でわかりやすい説明」をでっち上げることはできる。まったく正反対のことについてそれぞれ「論理的でわかりやすい説明」が用意されていることだって珍しくない。けっきょく「どれを信じるか」の問題にしかならない。

2012-06-17 18:08:59
渡邊芳之 @ynabe39

「論理的にわかりやすく説明すればわかってもらえるはず」とか言ってる時点ですでに「自分が間違いなく正しい」ことが含意されているわけで「理解しようとしない人」はその「正しさの押し付け」を拒否しているのかもしれない。

2012-06-17 18:11:50
渡邊芳之 @ynabe39

「論理的にわかりやすく説明しているのに相手に理解する気がない」というのはそれ自体「相手が馬鹿だ」と言っているのと同じことなのだと思う。ただ「馬鹿だ」とか「愚かだ」とかいう言葉を使いたくないというだけの話で。

2012-06-17 18:17:38
渡邊芳之 @ynabe39

「論理の人」にそれをわかれと言うのは無理。わかったら自分が自分でなくなってしまうのだから。

2012-06-17 18:21:37
渡邊芳之 @ynabe39

どうして相手にだけ「わかる努力をする義務」を負わせることができるのだろう。自分には「自分の論理的でわかりやすい説明を理解しない人について理解する義務」は生じないのだろうか。生じないとすればそこには最初から「自分は正しく相手は間違っている」という前提があるからだと思う。

2012-06-17 18:23:19
渡邊芳之 @ynabe39

学校の先生と生徒の間には「とりあえず先生の言うことが正しいという前提で先生の言うことを理解しようと努力することが望ましい」というある種の契約関係のようなものがあるのだと思う。しかし学校の外の大人と大人の関係にそのような契約関係はないではないか。

2012-06-17 18:29:16
渡邊芳之 @ynabe39

「私を説得する前にまずあなたが詐欺師でないことを証明してください」。

2012-06-17 18:30:38
渡邊芳之 @ynabe39

「自分は詐欺師ではない」というのはそれこそ「主観的な信念」なのではないか。優れた詐欺師ほど騙しているつもりがない,みたいなことも聞いたことがある。

2012-06-17 18:32:00
渡邊芳之 @ynabe39

「私は頭が良いです」「自分は賢いです」と言いたくてしょうがない人が嫌い,というのは相当に広く共有された感情だと思う。それがわからないのが頭の良い人の欠点。

2012-06-17 18:42:10