発達障害と社会との関係:発達スペクトラムと、親の育て方vs自閉症脳障害説

発達障害や自閉症スペクトラムについて、従来の「親の育て方」原因論に代わり、脳の機能障害説が広く流布している。それに対して、社会の変化や制度のあり方を問う見方もある。 滝川一廣氏の「発達スペクトラム」によれば、健常者・定型発達者と発達障害者との間には明確な線引きはできず、両者はスペクトラムの様に連続している。 石川憲彦氏は「親の育て方に対するアンチテーゼとして自閉症脳障害説を認めた」が、「それを医者が言ってはおしまいだ」として、「専門家が病気だと宣伝していく裏に進行する社会的無意識の動向みたいなも機を相当注意していないとヤバイと感じる。「自閉症」もどんどんインフレのようにふえていく。」と言う。 ●先行するまとめ:「統一テスト、特別支援教育など公教育の日米の実情についてのやり取り」http://togetter.com/li/254026 から、滝川一廣氏の「発達スペクトラム」についての部分を転載。 続きを読む
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●滝川一廣氏の「発達スペクトラム」について


ひじじきき @hijijikiki

続4)そもそも発達障害の診断自体が疑問で、滝川一廣「「こころ」の本質とは何か」の「自閉、精神遅滞、正常発達も全ては一つながりの「発達スペクトラム」上にある」p165とあるように、線引き自体恣意的であって、支援が必要な人全てに支援すべきと思います。@zankatei

2012-02-07 22:11:32
ひじじきき @hijijikiki

続5)滝川氏「発達スペクトラム」は http://t.co/iHBmkSeh のp40にも。身体障害と違って、発達障害は、特に軽度の場合は受けられる支援とスティグマ=烙印との兼ね合いで決まる面も。悩んでいる保護者さんが多いような。@zankatei

2012-02-07 22:12:40
ひじじきき @hijijikiki

①滝川一廣氏の「発達スペクトラム(連続分布)」:「認識(知的理解) の発達」と「関係(社会性) の発達」の2 つの発達軸をもち,この両者がお互いに支えあって進むものが「精神発達」http://t.co/iHBmkSeh図1「精神発達の2軸」http://t.co/M0YQOi65

2012-02-08 22:15:07
ひじじきき @hijijikiki

②滝川一廣「すべては精神発達の連続的分布(スペクトラム)のうちにあり, 互いにつながりあっていて, どこからがどれと線が引けるものではない」(滝川2008:54) 結局, 「発達障害」という「診断」は人工的なもの, 任意なものであるためその範囲もいくらでも拡張しうることになり,

2012-02-08 22:16:54
ひじじきき @hijijikiki

③その「線引き」は社会的な判断によってなされるということになる. 従ってその意味では, 「発達障害とは社会の関数で, 私たちの社会のありようとその社会を生きる私たちの姿を映し出す鏡」(滝川2008:55):以上、小坂啓史「「発達障害」概念の政策対象化と問題構制」から引用

2012-02-08 22:17:26
ひじじきき @hijijikiki

↓以上、前に述べた「発達障害の診断自体が疑問で、線引き自体恣意的で、支援が必要な人全てに支援すべき」という論点への滝川一廣氏の引用の追加でした。ご参考まで。@zankatei

2012-02-08 22:18:09
ひじじきき @hijijikiki

http://t.co/b3C5xlGBへの、図(出典内のオリジナル)の追加です。⇒図2「発達の分布と発達障害」滝川一廣, 2008, 「『発達障害』をどう捉えるか」松本雅彦・高岡健編『発達障害という記号』p54 http://t.co/uYBQWjHI

2012-06-18 13:24:15
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●石川憲彦氏の「親の育て方に対するアンチテーゼとして自閉症脳障害説‥」について


ひじじきき @hijijikiki

『小児科医の石川憲彦と精神科医の高岡健との対談の本に以下のような発言がある。「高岡 自閉症脳障害説に関しては、例えば自閉症協会でもそういうふうに言っていますし、これまでの親の育て方が悪かったという誤解に‥(続く)』立岩真也「集積について」http://t.co/8cUw7yrk

2012-05-12 14:34:19
ひじじきき @hijijikiki

続1)『‥親の育て方が悪かったという誤解に対するアンチテーゼとしてはそういう言い方で私は十分いいと思うのです。しかし、この説で何が証明されるかというと、私は永遠に証明されないだろうと思っています。」』立岩真也「集積について―身体の現代・3」http://t.co/8cUw7yrk

2012-05-12 14:35:47
ひじじきき @hijijikiki

続2)『「石川 私も、医者の立場から親の育て方に対するアンチテーゼとして自閉症脳障害説を認めたというところでは、そこは半分そうだと思う。でも、それを医者が言ってはおしまいだとも思う。」(石川・高岡[2006:42]』立岩真也「集積について」http://t.co/8cUw7yrk

2012-05-12 14:37:14

●図2「発達の分布と発達障害」滝川一廣, 2008, 「『発達障害』をどう捉えるか」松本雅彦・高岡健編『発達障害という記号』p54

http://twitpic.com/9xqm8c

★下の論文 ↓ の図のオリジナル版 ↑ です。


滝川一廣氏の「発達スペクトラム」について、

日本福祉大学福祉社会開発研究所『日本福祉大学研究紀要-現代と文化』

第120 号2009 年12 月
のp40-42から引用:

「発達障害」概念の政策対象化と問題構制

                    小坂啓史

http://research.n-fukushi.ac.jp/ps/research/usr/db/pdfs/00024-00004.pdf

  ....(省略)....

滝川によれば, 「発達障害」の本質とは精神発達の歩みの「遅れ」に他ならないとする(滝川
2008:46). つまり, 精神遅滞は認識(知的理解) の「遅れ」, 広汎性発達障害は関係(社会性)
の「遅れ」, 特異的発達障害は特定の精神能力の発達だけが取り残されて「遅れ」るもの, 注意
欠陥多動性障害(ADHD) は注意集中困難・多動・衝動性という乳幼児の行動特徴をもち続け
ているというかたちでの発達の「遅れ」, というようにである(滝川2008:46-47).
語義的にみても「発達障害」は「発達」が「障害」を被っていること, つまりは「発達」が
「遅れ」ていることを指すと考えられることからも, 以上の見解は把握しやすいものであるが,
http://twitpic.com/8gvvcz

ではこの「精神発達」の歩みそのもの
については, どのようなものと捉えら
れるのであろうか. この点について滝
川は, 図1 に見られるように「認識
(知的理解) の発達」と「関係(社会
性) の発達」の2 つの発達軸をもち,
この両者がお互いに支えあって進むも
のが「精神発達」であるとしている
(滝川2008:52-53). 我われはみな,
この図におけるZの矢印方向に沿った
かたちで楕円状に分布する(図1 にお
ける, 破線の楕円内) どこかの位置に
いるのであり, 関係発達が平均水準か
その近くまで届きながら, 認識発達が
平均に大きく届かないところに位置するものを「精神遅滞」, 認識発達も関係発達も平均に大き
く届かないところに位置するものを「自閉症」, 認識発達は平均あるいは平均以上だが, 関係発
達は平均に届かないところに位置するものを「アスペルガー症候群」, 「自閉症」と「アスペルガー
症候群」の間に位置するものが「高機能自閉症」としている(滝川2008:53-54). つまり, 「す
べては精神発達の連続的分布のうちにあり, 互いにつながりあっていて, どこからがどれと線が
引けるものではない」(滝川2008:54). 結局, 「発達障害」という「診断」は人工的なもの, 任
意なものであるためその範囲もいくらでも拡張しうることになり, その「線引き」は社会的な判
断によってなされるということになる. 従ってその意味では, 「発達障害とは社会の関数で, 私
たちの社会のありようとその社会を生きる私たちの姿を映し出す鏡」(滝川2008:55) であると
している.
こうした見解は他にも出てきており, 例えば心身障害児施設の現場経験をもつ村瀬学による見
解においても, 「知的世界」からの「おくれ」は「ちえおくれ(=知的障害)」とされ, 「社会機
構」からの「おくれ」は「自閉症」と「診断」されてきたとし, こうした「おくれ」に関しては,
文化や文明を創ってきたものの側の尺度によって「問題」視されてきたとする(村瀬2006:224).
つまり, 「おくれ」が存在するかどうかということではなく, 社会の側の状況によって問題とさ
れたりされなかったりすることそのものに問題があるのだということであり, さらにいえば実は
個人という存在は, 文明のシステムから常に「おくれる存在」として生きてきたということさえ
いえる, と指摘する(村瀬2006:224).
以上を踏まえると「発達障害」とは, 社会の「発達」という集合表象に依拠した社会的な関係
性の中で, それがその直線的な方向性に一致したものではなく, さらにその速さにも一致しない
とみなされることで問題として現象化したものであり, こうした状況を個人のレベルに即して精
神医学の立場から概念化されたものなのだ, ということがいえるだろう. つまり, 社会状況から
の逸脱として捉えられる個人的状況(とみなされるもの) が, 医療的枠組に組み込まれていく事
態の進展, つまり「逸脱の医療化」(Conrad & Schneider 1992=2003) という社会変動に即し
たかたちで, 「発達障害」概念も生まれてきたという説明が成立しうる. 「発達障害」に含まれる
個々の内容は, 社会の「発達」というベクトルからは逸脱しているという意味で, 共通した「障
害」とレイベリング(labeling) され一括りにされる. これが「発達障害」という一般概念の導
出に繋がる道筋である, ということがいえるであろう.

....(省略)....
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上記抜粋部分での引用文献:

★滝川一廣, 2008, 「『発達障害』をどう捉えるか」松本雅彦・高岡健編『発達障害という記号』批評社, 44-56
★村瀬学, 2006, 『自閉症-これまでの見解に異議あり!』筑摩書房

  


http://www.arsvi.com/d/c11.htm
から引用:

◆石川 憲彦・高岡 健 20060625 『心の病いはこうしてつくられる――児童青年精神医学の深渕から』,批評社,メンタルヘルス・ライブラリー,172p. 

ISBN-10: 4826504454 ISBN-13: 978-4826504454 1890 [amazon]/[kinokuniya] ※ b m

 「石川[…]例えば、ある年齢ぐらいまでの子どもは大人だったら戻らない発語機能が戻るのは左側が壊れると右側が利用可能だからということはよく知られてきた。かつて医学はこのような器質的異常論からスタートしたわけです。ところがいつの間にかこれが機能的異常という言葉を生み出すようになると――これは脳死臓器移植まで行ってしまいますが――逆に機能の問題を脳の中の活用方法の異常という仮説を持ち出して、ついには病気を量産しようとしている。ここに今の精神医学の中で一番のトピックス[ママ]になっていると思うのです。
 だから「心の理論」は、因果関係が問題にならない。そこから出てきている理論の怖さは、最適理論です。脳は活用方法を一定の方向に決めたのですから、そこは個性で変えられない。しかし、個性的なありように負担を与え過ぎず、しかも個性を生かすためにどうやって最適の刺激を調節して与えるかが問題だという理論です。それはある意味では当たり前のこ<0040<とで、使い過ぎは疲れるし、使わなくては機能は低くなる、というようなことにすぎないのに、あたかも「自閉症」の子どもには最適があるように言い繕う。脳の動きにまで最適基準として特殊化されて導入されることになったら、これはもう薬づけの世界に突入するしかない。」(石川・高岡[2006:40-41])

 「高岡 自閉症脳障害児に関しては、例えば自閉症協会でもそういうふうに言っていますし、これまでの親の育て方が悪かったという誤解に対するアンチテーゼとしてはそういう言い方で私は十分いいと思うのです。しかし、この説で何が証明されるかというと、私は永遠に証明されないだろうと思っています。自閉症というのは、胃がんや骨折とは、全く違う領域の話ではないかと思うからです。
 では何なのかと言われると困るのですけれども、私は人間存在の原点みたいなものだと考えています。この原点が、発達という形でどんどん不自由にされていく過程がある。[…]」(石川・高岡[2006:41])

 「石川 私も、医者の立場から親の育て方に対するアンチテーゼとして自閉症脳障害説を認めたというところでは、そこは半分そうだと思う。でも、それを医者が言ってはおしまいだとも思う。高岡さんがよく言われるうつ病の話と同じだと思います。「うつ」は日本では根性のせいとか、甘え、だからというふうに批判的にみられてきた。それに関するアンチテーゼとして「うつ」は病気です、というのはいいように見えるけれども、気がついてみたら祖結果アメリカでは女性の4分の1は「うつ」で10%位の人が薬を飲んでいるという話にまでなってしまった。
 そこまでいったときに、専門家が病気だと宣伝していく裏に進行する社会的無意識の動向みたいなも機を相当注意していないとヤバイと感じる。「自閉症」もどんどんインフレのようにふえていく。スペクトラムという言葉自体がどういう広がりと可能性を誰にでも導いていきかねない。しかし誰にでも可能性があるなら特別視を止めてチャラにすればいいじゃない、という社会の方向はなかなか生まれない。」(石川・高岡[2006:42])

 


http://www.arsvi.com/w/in02.htm
から引用:

◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』,生活書院,272p. 

ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon]/[kinokuniya] ※,

 「山田さんは小児科医で、今年だと毛利さんとの共著で『育育児典』が十月に出て、順調に売れていると思います。僕は、山田さん、毛利さん、それから後でも出てきますが石川憲彦さんといった人たちの本が一定の読者を獲得していることは、この医療という陰鬱な業界において数少ない喜ばしいことの一つであろうと思っています。そして山田さんや毛利さんの本は学者なんぞを相手にしてはいない。それは表紙を見ただけでわかります。」(山田・立岩[2008]、立岩の発言)

 「すこし戻しますと、医療者たちの世界をどうこうしようという動きが出てきたとおっしゃった。例えば幾つかの学会がどこまでのことをしたのか、あるいはしなかったのかということを見ておく必要があるだろうと思いますが、他方、毛利さん、山田さん、石川さんたちは、この間専門化向けではない本をいっぱい書いてきている。私は、こうして出されたてきたものって、とてもよいものだと思うのですが、山田さんはこの間もう何十年も、専門家むけではない本をいっぱい書いてきたわけです。これはそうなっちゃったから、なっちゃったんだという答えで終わってしまうのかもしれないんだけれども、文体や装丁も含めて、毛利さんや山田さんは、こういうものの言い方とか伝え方をしていかなきゃいけない、していったほうがいいんだという、思いみたいなものはあるのですか。」(山田・立岩[2008]、立岩の発言)

 「山田:中井さんや神田橋さんに、社会的な運動をやってほしいって要求してもちょっとそれはね。
 立岩:それはそれでいいと思うんです。それはいいんです。
 山田:だからむしろ運動をやっていた部分が、運動をやりながら、世の中変えるということを目指しながら、同時に患者さんに寄り添うことはできたはずなんだ。イギリスへ留学した私の一年下の精神科医の話を聞くと、やっぱりイギリスで反精神医学をやった連中は、その後物凄く苦労して、試行錯誤で、いろいろな実践をやったらしい。一旦は反精神医学的に割り切ったけれども、それだけでは済まないというところへもう一回戻って、そこで苦悩して新しいところを切り開こうとする努力をした。その部分が日本では欠けていると思う。そこをやってほしかった。やろうとしたけど、もうそこには運動がなくなっていて、できなくなってしまったという。だから石川憲彦なんかはいわゆる活動家ではないけど、やっぱり何かやらなければいけないと思い続けて実践していると思うのだけれど。
 立岩:石川憲彦さんの著作が与えたものは大きかったです。[『治療という幻想――障害の治療からみえること』が重かったです。一九八八年の刊行ですね。雑誌『季刊福祉労働』の連載がもとになっていますから、まず連載の方を読んだのかもしれませんけど。もっと以前に出た本のような気がしていました。ずっと東大病院で小児科医してらして。「医療と教育を考える会」というのをやっていましたよね。いっしょに『生の技法』を書いた仲間の岡原正幸がそこに出入りしていたと思います。
 石川さんは一九四六年生まれだから、山田さんより若いんですね。このごろもいろいろと書物を出しておられる。岐阜大学の高岡健さんと対談した『心の病いはこうしてつくられる――児童青年精神医学の深渕から』はとてもよい本だと思いました。そしてこの本で、石川さんもまた障害者の運動から受け取ったものが大きかったことを語っています。
 『ちいさい・おおきい…』の連載を集めた『こども、こころ学――寄添う人になれるはず』もじつは硬派な本ですが、そこにもそのことを書かれています。」(山田・立岩[2008]、立岩の発言)

 「立岩:武見さんって確かにね、権益を守る側にいるとともにそういうある種のモラリストでもあるという人だったと思うんですよね。その時勢で、現実はそこまでもいってないと。それに対して例えば、今日話の最初に出た松田さんとかね、それはまた全然違うスタンスというか、場所、ポジションですよね。一方は日医の会長であり、一方は京都の町医者。でもメディア的にはどうなのというあたりで、それこそ患者の権利とかね、そういう路線で言ってきて、ほぼそれは当たりでというか、大変尤もなことであったと思うんだけれども、例えばそれこそ終末期医療云々の議論の中で言うと、じゃあそのモラリズムなり専門家主義に対して、松田さんの線でいけるのかという話がやっぱりあるわけじゃないですか。
 それはそうでありながら、従来どおりの仁術専門化主義、モラリズムでいくっていっても、そうはなかなかいかん、現実にはいかないだろうと。それに対して、患者のある種の消費者主義と権利で押してきたときに、まるまるオッケー、なんでもオッケーみたいな話になってきて、それの方がある意味で医者は楽じゃないですか。言われた通りにやるだけです私、みたいなね。
 どっちに行ってもそれでいいのというときに、そこのところをという話ですよね。最近の話は、そこにいる人を診ろ、付き合えという話が一方にあって、それはその通りだと思いつつ、でもそれは言ってみれば一人ひとりの医師のある種の心意気のようなものに委ねられている部分もあるわけだから、さぼろうと思えばさぼれるわけですよね。付き合うやつは付き合うかもしれないけれど、付き合わなくたって世の中の医療者の仕事は進んでいく。そういう意味で言えば、本人をきちんと、というのは正解ではありつつも、二つの方向に対する代案、システムとしての代案にはなりにくい。というようなやっかいな状況にあるんだと思うんだけれども、どうなんでしょう?
 僕なんか、山田さんや石川さんが書かれてきたそういった本に書かれていることって、「この世のことはなんでもいちがいには言えないよね」というだけではないと思うんです。医療者のパターナリズムってものがあって、それがいけないということに、いつのまにやらなって、振り子は反対の方に振れている。でもそこにあるのはそう違うものなのか、と。たしかに威張る度合は減ったかもしれないけれども、その代わりに仕事を放棄し人を放置して楽をしているのは医療者じゃないか。そういうことを書かれている。」(山田・立岩[2008]、立岩の発言)

 


引用文献

★滝川一廣, 2008, 「『発達障害』をどう捉えるか」松本雅彦・高岡健編『発達障害という記号』批評社, 44-56

http://www.amazon.co.jp/発達障害という記号-メンタルヘルス・ライブラリー-松本-雅彦/dp/4826504802

★村瀬学, 2006, 『自閉症-これまでの見解に異議あり!』筑摩書房

http://www.amazon.co.jp/自閉症―これまでの見解に異議あり-ちくま新書-村瀬-学/dp/4480063072

★石川 憲彦・高岡 健 20060625 『心の病いはこうしてつくられる――児童青年精神医学の深渕から』,批評社

http://www.amazon.co.jp/心の病いはこうしてつくられる―児童青年精神医学の深渕から-メンタルヘルス・ライブラリー-石川-憲彦/dp/4826504454/ref=sr_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1339944973&sr=1-8

★稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』,生活書院

http://www.amazon.co.jp/流儀―アフリカと世界に向かい我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話-稲場-雅紀/dp/490369030X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339945015&sr=1-1