- toshihiro36
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冒頭のVTR
<ナレーション> いま日本の原子力政策を見直す議論が行われています。議題は「核燃料サイクル」。1950年代の開始から半世紀、2兆円の巨費を投じて行われてきた国家プロジェクトです。
2012-06-17 22:22:28<ナレーション> 技術的に困難なことから欧米各国は、核燃料サイクルからの撤退や見直しを行ってきましたが、日本は実現を目指し続けています。 去年3月炉心溶融事故を起こした東京電力福島第一原発。爆発や火災のあった1号機から4号機には、大量の核燃料が行き場のないまま保管されていました。
2012-06-17 22:25:43<ナレーション> 40年にわたり原発を稼働し続けた結果、日本全国の原発では使用済み核燃料が貯まり続けています。その量1万4200トン。このままでは年間1千トンのペースで増え続けていき、あと6年ほどで保管するプールに入りきらなくなります。
2012-06-17 22:31:13<ナレーション> この使用済み核燃料を有効利用するのが、核燃料サイクルのはずでした。プルトニウムを取り出し、ふたたび燃料として使う。資源を輸入に頼る日本にとって、きわめて魅力的な計画でした。しかしプルトニウムを燃料とする高速増殖炉もんじゅは、完成以来一度も本格稼働していません。
2012-06-17 22:35:02<ナレーション> それでも核燃料サイクルには、毎年800億円以上が投じられ続けています。なぜ核燃料サイクルは今日に至るまで、見直されることなく続けられてきたのでしょうか。それを知る手がかりが残されていました。
2012-06-17 22:40:58<ナレーション> 核燃料サイクルの中枢を担ってきた人々が、1985年から94年にかけて国策の裏側を語りあった非公式の会合の録音テープです。
2012-06-17 22:42:18元科学技術庁政策課長・島村武久:日本の大きな将来ということを考えたときに、FBR(高速増殖炉)が日本に一番適しているということを決められたわけですよ。それはまあ、理想も理想…夢ですな。全くの夢だったわけですよ。
2012-06-17 22:47:08元科学技術庁管理課・伊藤義徳:日本ではプロジェクト不滅の法則というのがあってですね、いかにおかしくても、死なないと。いったん決めたら、何とか最後までやるというのが体質なんでしょうか。
2012-06-17 22:50:05<ナレーション> そこでは夢を託した巨大プロジェクトから、次第に後戻りできなくなっていった過程が赤裸々に語られていました。核燃料サイクルはいかに歩んできたのか。反籍の奇跡を辿ります。
2012-06-17 22:53:12↑半世紀のタイポです
ここから本編です
<ナレーション> 旧科学技術庁の官僚だった伊原義徳さん、88歳。日本の核燃料サイクルに、黎明期からかかわってきた人物です。伊原さんは1955年、第一期の原子力留学生としてアメリカに留学。日本で最も早く原子力発電の技術を学んだ一人です。
2012-06-17 22:59:35伊原:当時、日本はまだ貧しい国でしたけれども、何とかみんなで努力して日本民族の将来に夢を持とうと...そういうのが基本にあったわけですね。
2012-06-17 23:02:26<ナレーション> 日本で原子力発電の導入が検討され始めたのは、占領から独立を果たしてまもなくのことでした。1954年、国会で初の原子力予算が承認されました。その2年後、原子力行政を担うことを目的に科学技術庁が設立されます。
2012-06-17 23:07:00<ナレーション> 科学技術庁には伊原義徳さんら若手官僚が集められ、日本のエネルギーを支える柱として原子力政策の立案が命じられました。リーダーである原子力局政策課長に任命されたのが島村武久。後に原子力局長などを歴任し、今日の核燃料サイクルの礎を築いた人物です。
2012-06-17 23:11:38<ナレーション> 伊原さんは上司だった島村から、ある資料を託されていました。島村が主催していた非公開の会合「原子力政策研究会」の議論を録音したテープです。島村は日本の原子力政策の内実を、記録に残そうとしました。
2012-06-17 23:19:11島村武久:私が伊原さんや田中さんなんか、川島さんもなんだけど…一緒に仕事している頃はおもしろかったですよ。というのはね、苦労はあったけれども、やろうと思ったことはできたんですよ。
2012-06-17 23:25:15伊原義徳:私が留学に参りました30何年か前にですね、グラストンのニュークリア・リアクター・エンジニアリング(原子炉工学)という本があるんですが…この本の中に現在の原子力の仕事は、全部書いてあるんですね。
2012-06-17 23:29:14伊原:36年前の教科書がですね、もう実に見事に書いてあるんですね。ですからこの路線を、日本は忠実に守ってきたわけですね。先生のおっしゃる通りやって、優秀な生徒になってここまで来た。
2012-06-17 23:31:53島村:考えてみますとFBR(高速増殖炉)を日本がやっていこうということは、昭和31年の原子力委員会が生まれました時にね…ワアワアいって、まだなにも知らないときに、新しい知見をそこでいっぱい背負いこんできて…
2012-06-17 23:36:10島村:日本の大きな将来ということを考えた時に、FBRが日本に一番適していると決められたわけですよ。それはまあ、理想も理想…夢ですな。全くの夢だったわけなんですよ。
2012-06-17 23:39:34<ナレーション> 科学技術庁で島村武久たちが、戦後日本のエネルギー政策の目標として定めたのが核燃料サイクルでした。当時それは、まさに夢の技術でした。核燃料サイクルではウランなどを核燃料に加工し、増殖炉で使います。
2012-06-17 23:51:29