天正10年 神流川の戦い
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【ニュース】天正10年(1582年)上野から伊勢へ退却中の滝川一益が神流川で北条軍と戦い大敗する。また甲斐代官河尻秀隆が一揆勢に襲われ、武田遺臣三井弥一郎に討たれる。享年56歳。 http://t.co/DtbQLNnA
2012-06-18 16:32:16ということで、北条氏照兄上による、北条方から見た神流川の戦いについての解説。
我等がその知らせを受けたのは六月十一日だった。兄上や氏直殿には、私の重臣である狩野一庵から知らせがいっている。報を受けた兄上は、当時織田家から関東統治の守護としていた滝川一益殿にその実否を問う書状を送った
2012-06-18 19:17:45その書状の内容には忠節を尽くす旨が書き添えられていて……そうだな、 「深谷之谷より狩野宗円(一庵)の書状により京都の事変を知った。実際のことであろうか。
2012-06-18 19:23:37徳川家康殿からも連続して注進が来ている。一益殿にはその地を堅固にして防備してほしい。北条家はけっして一益殿に対しては敵対することはない。今後も氏政に何でも相談してほしい」 といった感じの内容だな
2012-06-18 19:24:05えー、続きな。書状などにより事変の確証を掴むと、氏政兄上・氏直殿父子は忽ち攻撃的な姿勢をとった。そして滝川殿を撃破した後、信濃から甲斐に進撃して失地を奪還する作戦をたて、軍勢を差し向ける
2012-06-18 21:02:29同月十五日には甲斐国郡内の渡辺庄左衛門に進撃を依頼するとともに、上野国境に軍勢を集結させとるな。 この頃の甲斐は織田家家臣の河尻秀隆殿が統治していたんだが、本能寺の変のあと旧武田領の各地域で武田遺臣による国人一揆が起こったんだ
2012-06-18 21:12:33同月十五日には甲斐国郡内の渡辺庄左衛門に進撃を依頼するとともに、上野国境に軍勢を集結させとるな。 この頃の甲斐は織田家家臣の河尻秀隆殿が統治していたんだが、本能寺の変のあと旧武田領の各地域で武田遺臣による国人一揆が起こったんだ
2012-06-18 21:12:33その一揆に抗しきれず、河尻殿は甲斐国を抜け出そうとするのだが岩窪にて武田遺臣の三井弥一郎殿に殺されている。それも天正十年の六月十八日の話だ
2012-06-18 21:16:15その一揆に抗しきれず、河尻殿は甲斐国を抜け出そうとするのだが岩窪にて武田遺臣の三井弥一郎殿に殺されている。それも天正十年の六月十八日の話だ
2012-06-18 21:16:15………話がずれたな…。 北条方が上野国境に軍勢を集結させたのに対し、滝川殿は倉賀野に出陣し、北条軍と対峙する。この決戦の火蓋は、十八日、金窪で切られ、次いで武上国境の神流川の河川敷で激突した
2012-06-18 21:20:01………話がずれたな…。 北条方が上野国境に軍勢を集結させたのに対し、滝川殿は倉賀野に出陣し、北条軍と対峙する。この決戦の火蓋は、十八日、金窪で切られ、次いで武上国境の神流川の河川敷で激突した
2012-06-18 21:20:01緒戦は氏邦隊が金窪で激突したんだが、押しまくられて敗退したんだ。だが翌日には上野衆の戦意が喪失したこともあり、氏直殿の本隊と激突した滝川殿の軍は旗本隊のみで戦う結果となり、たちまちにして大敗していく
2012-06-18 21:24:05滝川殿は戦場を離脱すると、箕輪城から碓氷峠を越え信濃に入り小諸城を依田信蕃に預けると、自身は中山道を通り木曾に抜け、七月一日には長島城へ戻ったらしい
2012-06-18 21:27:34因みに依田信蕃殿は、徳川殿から甲斐・信濃の侍たちを徳川方に招き寄せるべく極秘の命令を受けていたらしいのだが、北条の軍が来襲すると城を明け渡して逃亡してしまっているぞ
2012-06-18 21:29:39「神流川の戦い」と称される合戦については、まぁこんなところか。 河尻秀隆殿が土一揆に殺害された後甲斐は無主の国になり、さらに信濃は織田方の大名の分封地で激しい動揺をきたしていたので攻め込むには絶好の条件にあったんだよな
2012-06-18 21:33:34あ、これは余談なんだが、滝川殿が本能寺の変を知ったのは六月の九日らしい。そして上野衆や北条方には知らせぬようにしていた、という話を聞いたことがあるぞ
2012-06-18 21:44:41