山田正紀氏と笠井潔氏による「輪るピングドラム」考察

「輪るピングドラム」について、山田正紀氏と笠井潔氏が深夜に考察されていたのでまとめました。 ・6月21日に両氏が考察された分を追加しました。(6/22) ・6月22日に両氏が考察された分を追加しました。(6/23)
アニメ 輪るピングドラム ピンドラ
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山田正紀 @anaryusisu
ようやく「輪るピングドラム」見おわった。まったくの偶然だが、いま私が加筆推敲している「復活するは我にあり」にも「交響曲 蠍火」が出てくる。「輪る」のテーマソングは「少年よ我に返れ」。「銀河鉄道の夜」を前提にしての話だろうが笠井潔はこれを「カラマーゾフの兄弟」だという。そうなのか?
笠井潔 @kiyoshikasai
@anaryusisu 眼がしょぼしょぼしてきて、これから寝るところです。山田さんの感想には、起きてから答えますので、どうかご容赦を(笑)。
山田正紀 @anaryusisu
笠井さんの意見に異論がある。「子供を救え」は「カラマーゾフ」のテーマであるのと同時に「銀河」のテーマでもある。冠葉、晶馬、陽鞠は「カラマーゾフの兄弟」である以上にジョパンニ、カムパネルラ、幼い少女の姿だろう。これは書かれなかった「カラマーゾフ」の続編。「それ以降の少年たちの物語」
笠井潔 @kiyoshikasai
@anaryusisu ようやく机の前に戻りました。で、話の続きですが、「ピンドラ」に「銀河鉄道」を重ねてみると、いったいどんな光景が見えてくるのでしょうか。こうした問題に「正解」はなく、より豊かな可能性をはらんでいる解釈と、そうでない解釈があるだけだと思います。
山田正紀 @anaryusisu
「ピングドラム」では「夢」と「幻想」と「消されてしまった運命軸」と「トラウマでゆがめられた偽りの記憶」とそして「現実」とが混然と一体になってる。何が「現実」なのかを見きわめる必要があるだろう。思うに池袋サンシャイン「水族館」のペンギンたちはまず「現実」と見なしていいのではないか
山田正紀 @anaryusisu
それは水族館のペンギンだけが異様にリアルなことからも推察される、タイトルは「ペンギン ドラム」であってドラムはぐるぐる回転するのを意味する。それはドラム型洗濯機の存在で暗示される。ペンギンは群れをなして輪る。水に入ることか水から出ることかどちらかが「現実」を象徴しているのだろう。
山田正紀 @anaryusisu
(3)そう考えれば冠葉と晶馬が「サンシャイン水族館のペンギンのかぶり物」をかぶった陽鞠から「捜せ」と命じられた「ピングドラム」が何であるか容易に推察できるだろう。それは「愛」などではない。「現実」なのだ。エンディング・テーマの「少年よ我に返れ」とは現実に目覚めよ、という意味なのだ
小山田浩史 @magonia00
山田正紀先生が『輪るピングドラム』について連続ツイートをなさっている! 山田正紀ファンにしてピンドラファンのオデとしては何とも嬉しい! でも先生、「少年よ我に返れ(帰れ)」は2期オープニングです、エンディングではありません(些末なことにこだわる愚か者)
山田正紀 @anaryusisu
(4)「輪るピングドラム」とは、妄想、トラウマ、執念、恨みと憎しみ、ストーカー的愛・・・そうした倒錯した観念にとり憑かれた人たちがいかにして「現実」をとり戻すかという話なのだ。そのなかには「家族への異常な固執」さえも含まれる。もちろん、その最たるものは16年前の「カルト」である。
山田正紀 @anaryusisu
(5)「輪るピングドラム」、物語のラストにいたっていかにもとってつけたように「誰かに愛されるのが生きたという証しだと頻発されるがこれは制作側の心の迷いか、わかりやすい言葉を餌にばらまく「視聴者サービス」に他ならない。ピングドラムとは「現実」のことである。まずはそこから始めたい。
山田正紀 @anaryusisu
(5)もう寝るのでそれ以上の考察は明日からのことにするが・・「ピングドラム」の関係者が笠井潔さんの「大量死理論」を参考にしたという話を人づてに聞いた。たぶん彼らは「テロルの現象学」をより参考にしたのではないか倒錯した観念の暴走からいかに目覚めるかこそがその最大のテーマなのだから
山田正紀 @anaryusisu
神話ではなく我に返れ「人類を補完する」のではなく「生存戦略」して「現実」に目覚めろ@mao_instantlife 90年代の作品がもっていた世界に区切りをつけようとしているエヴァのオープニングの「少年よ神話になれ」との対比でそこにふれていたかたもいらっしゃったように思います。
山田正紀 @anaryusisu
@kiyoshikasai おっしゃるとおりです。正しい解釈などないがより魅力的な解釈はある。それを模索したい。まずこれが「少年よ、神話になれ」という「エヴァ」に対する「少年よ、我に返れ」という回答であることから(これは息子の示唆によるものですが)議論を進めたいと思います。
山田正紀 @anaryusisu
@magonia00 ご指摘ありがとうございます。感謝します。もう眠いので明日訂正しますね
笠井潔 @kiyoshikasai
@anaryusisu 山田さんは寝てしまったようなので(笑)、ここまでのところで感想を一言。幾原邦彦氏が『テロルの現象学』を読んだかどうか、定かではありませんが、主題的に接点はあるような気はします。もちろん、偶然かもしれません。
笠井潔 @kiyoshikasai
『テロルの現象学』では、観念的倒錯の発生論理を「現実的自己喪失の観念的世界回復という必然性」に見た。たとえば『罪と罰』のラスコーリニコフは、あらゆる意味で行き詰まった青年だ。貧困で、学費は払えず、このままでは大学をやめなければならない。田舎には息子の「成功」だけが生き甲斐の母親。
笠井潔 @kiyoshikasai
あらゆる希望を断たれ、事態を打開する気力も失って、青年は貧しい部屋で引きこもり状態になっている。この「現実的自己喪失」を土壌として、あの異様な英雄観念が成長しはじめる。人類は法に従う凡人と、法を創設する非凡人に分かれる。非凡人は法を踏み越える権利がある。
笠井潔 @kiyoshikasai
青年は質屋の老婆を殺して学費を奪おうと決意する。非凡人である自分は、殺人を禁止する法など踏み越えることができるし、実際に踏み越えることで、逆に自分が英雄だということを自己証明できる。ラスコーリニコフの英雄観念は、もちろん倒錯しているが、この倒錯的観念は無から生じたのではない。
笠井潔 @kiyoshikasai
『テロルの現象学』では、倒錯的観念を打ち消すことはできない、ただ「浄化」できるだけだと書いた。しばしば青年である観念家が「現実」に目覚めて、おのれの青臭さを反省するという事例はありふれている。目覚めたはずの「現実」が、「現実という、もうひとつの観念」にすぎない場合も多い。
笠井潔 @kiyoshikasai
「ピンドラ」では最後に呪文が見いだされ、運命の乗り換えが起こる。冠葉と晶馬が子供になっているう一つの世界は「現実」で、もともと登場人物が生きていた世界が「観念/妄想/想像」だったわけではない。ここでは観念と現実の二項対立が脱臼させられている。
笠井潔 @kiyoshikasai
現実の喪失から生みだされた妄想世界、観念世界は「現実」に乗り換えられたのではなく、たんに「浄化」された。これが運命の乗り換えの意味ではないかと思う。
山田正紀 @anaryusisu
倒錯観念はいかに浄化されたか、冠葉たちの「銀河鉄道」のカムパネルラのような自己犠牲によってだろうと思います@kiyoshikasai 現実の喪失から生みだされた妄想世界、観念世界は「現実」に乗り換えられたのではなく、たんに「浄化」された。これが運命の乗り換えの意味ではないかと思う
山田正紀 @anaryusisu
@kiyoshikasai 第一エピソード冒頭で二人の子供が「銀河鉄道」における自己犠牲の話をしています。わが身を燃やし星になり人を救済した「蠍」こそが冠葉たちの姿でしょう。常に列車の走行音が聞こえる。らは「サリン地下鉄」「運命列車」それに「銀河鉄道」に乗っているのだと思います
笠井潔 @kiyoshikasai
@anaryusisu なんだ、山田さん、起きてるじゃないですか(笑)。ご指摘の点は異存ありません。ラスコーリニコフも、法が支配する日常世界という「現実」に目覚めたのでも、そこに回帰したのでもありません。
笠井潔 @kiyoshikasai
シベリアの流刑地でも、「おれは法を無視して人を殺した、今度は法がおれを殺せばいい、それで帳尻は合うはずだ」と思っている。倫理問題として、殺人行為を少しも悔悟していない。最後に大地に身を投げて物語は終わりますが、いったいなにが青年の魂に起きたのか、読者はさっぱりわかりません。
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コメント

noborinnn @noborinnn 2012年6月20日
今にして思えば、あのユダヤの金貸しという文脈自体が外国人差別と職業差別の象徴以外なにものでもないという閉塞感の共有ブリであるが、ファーストペンギンはそのままファーストペンギンで地下鉄爆破テロの運命線を変え、しかもオンナのために命を投げ出すという英雄行為の象徴なんでしょう~
おばけうさぎ @pantasmacoello- 2012年6月22日
次の日以降の考察も追加しました。
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