巡洋艦 名取とその後について ~生存者195名のカッターによる13日間の櫓漕、JFK海軍中尉の救難など~

まとめました。記録整理と備忘録用です。
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森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

祖父が乗艦していた巡洋艦『名取』  http://t.co/kQAqFhB3

2012-06-21 07:47:05
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森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

Natori class Light Cruisers Devision of Naval Intelligence Nov.1942 http://t.co/CadYHkCW

2012-06-21 08:59:16
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軍艦「名取」の最後  新潟県 金子富雄

http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_211_1.pdf

 私が体験した海軍軍人としての戦闘・訓練中、今日まで忘れることの出来ないことは、軽巡洋艦「名取」の最後と、 艦と運命を共にし、あるいは救助されず没された戦友のことである。

 開戦以来軽巡「名取」は第三艦隊第五水雷戦隊の旗艦として南西方面各地攻略作戦に参加し、以後、第二艦隊第十六戦隊に属して海上警備に当たっていたが、昭和十八年一月アンポン近海で敵潜水艦の雷撃と航空攻撃によって損傷、応急修理のためシンガポールで入渠。その後内地で修理され、戦闘準備完了後、再び フィリピン・ミンダナオ島ダバオに向かって輸送船団五隻を護衛しながら内地を出港した。

 以後、フィリピン群島を幾度かマニラからパラオ諸島に往復した途中、幾度も敵の魚雷攻撃を受けた。本艦の任務は、米国艦隊がフィリピンを攻撃する足がかりを築くために、パラォ群島を奪いに来るのを阻止するパラオ作戦にともない、第三号輸送艦と共にパラオへ物資を緊急輸送することであった。当時は巡洋艦も運送屋の一役をになわざるを得なかった。兵糧・大砲・弾薬・医薬品・航空用魚雷が本艦には所せましと満載されていた。

 私たちがマニラを出港したのが昭和十九年八月十四日、一度洋上に出たのだが米艦隊が近くにいるため一時セブ島に引き返し、様子を見て再び第三号輸送艦と共にパラオ島へ出港したのが八月十七日午前十時ごろであった。何分にもサイパン島玉砕後のことでもあり、米国潜水艦は必ず近くに潜伏していることは予測されていた。でも米軍が目指すであろう地点の防備を強化することは至上の命令であった。第三号輸送艦のスピードはきわめてのろく、二十ノット以上は出せないという悪条件があり、本艦も一緒にジグザグ航行を続つつ進んでいった。何日も通るコースとは違って的に対し進路目標をくらますべく、遠回りして北に針路を取り航行をはじめた。不気味な海面には波浪が激しく、艦は波にもち上げられ、ローリングで波の谷間に落ちこんでいく。何トンもの重量の水が艦橋や上甲板に落下し、飛び散っては将兵の上に降りかかる。波の所々に白い泡が立ち、彼方は混沌と激動のほかは何一つ見えぬ深い夜の世界だった。午前零時、艦は針路を南にとり、まっすぐにパラオに向かった。速力も輸送艦に同行した二十ノット、本艦としては一寸のろまなスピードであった。航程もすでに半ばに達している。

 苦闘も半ばを超えたといってよいころであった。戦後「名取」を撃沈したアメリカ潜水艦「ハードヘット号」の艦長から、当時の話を聞く機会があったが、艦長の話では、このときアメリカ潜水艦「ハードヘット号」はフィリピン東方海上を哨戒しつつ、レーダーにはっきりと本艦の姿をとらえていたというのであった。 「ハードヘット号」は一時間「名取」を追跡し、発射地点に達するや五本の魚雷を艦首発射管より発射、それから一分置いて艦尾発射管から電池魚雷を四本一斉に発射したのであった。「名取」本艦はまだ気づかず所定の針路を航行しつづけ、魚雷を発見したのは、後続の第三号艦が先であった。 夜空に青信号が高く打ち上げられた。「右舷に雷跡見ゆ」の緊急信号である。艦長はとっさに急速転舵を命じた。大きく傾斜した艦は攻撃を避けようとしたが時すでに遅かった。昭和十八年八月十八日午前二時頃であった。

「艦内総員配置につけ」の警報が鳴りひびき、私も部署に着いた。すると物すごい衝撃と共にある者は海中に投げ出され、ある者は上甲板にたたきつけられ、火傷する者、絶叫する者で一瞬のうちに本艦は大混乱となり、惨状は目を覆うものであった。全員必死の苦闘もむなしく午前六時三十分頃、本艦はついに力尽きて沈没したのである。 サマール島の東方約三百カイリ、北緯十二度二十九分、東経百二十八度四十九分の地点の太平洋であった。私も海中に飛び込む、兵隊はわれ先にと筏にすがり、カッターや内火艇へと泳ぎ、助けを求めた。その後風雨と闘い、フカと闘い、風浪のなすがままに運命を共にまかせて苦闘する二十六日間の漂流が始まるのであった。 私は「名取」と共に海の藻屑となることなく、九死に一生を得、何とか生きて帰ってこれたのは太平洋戦争の奇跡の一つといっても過言ではないだろう。

リンク www.amazon.com Amazon.com: Encounter at Sea and a Heroic Lifeboat Journey (9781879094277): Ichiro Matsunaga, Gordon J. Van Wylen, Kan Sugahara: Amazon.com: Encounter at Sea and a Heroic Lifeboat Journey (9781879094277): Ichiro Matsunaga, Gordon J. Van Wylen, Kan Sugahara: Books
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

『Encounter at Sea and a Heroic Lifeboat Journey』Ichiro Matsunaga, Gordon J. Van Wylen, Kan Sugahara (Author)   http://t.co/fm2tZhqF

2012-06-21 08:36:12
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森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

The Hardhead (SS365) was a US submarine that successfully completed six war patrols during WW II. http://t.co/vlanubMn http://t.co/LY5zPRPN

2012-06-22 06:15:10
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松永市郎 著『先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり』

まえがき

 昭和十九年八月、軍艦「名取」は、フィリピン群島マニラからカロリン諸島パラオ島へ、緊急戦備物件の輸送途中、敵潜水艦から魚雷攻撃を受けて撃沈された。場所はフィリピン群島サマール島の東方三百マイル(約六百キロ)の海域だった。味方の中型攻撃機一機が飛んできて、駆逐艦二隻が救助に向かっている旨の、通信筒を落とした。
 航海長小林英一郎大尉(当時二十七歳)は、先任将校として、カッター三隻および生存者百九十五名をもって、軍艦名取短艇隊を編成した。しかし、食料(乾パン少々はあった)も真水もなく、また磁石とか六分儀などの航海要具も何一つ持たなかった。先任将校は、カッターが洋上で発見される機会はきわめて少ないからと、十五日間も橈(かい)を漕いで、独力でフィリピンに向かうと宣言した。総員が救助艦を待つようにとこぞって提言したが、先任将校は所信を変えなかった。

 そして十三日目の早朝、短艇隊はついにミンダナオ島の東北端スリガオにたどり着いた。食事も休養も十分とらずに、毎日十時間カッターを漕いでいたので、接岸したときは体力の限界点だった。短艇隊の成功は、先任将校の早期決断と隊員一同がいったんは反対したものの、断行と決定するや命をかけて漕ぎつづけたからである。

 私は次席将校として先任将校の近くにいて、フィリピン行きを隊員にどうして納得させたか、時化との格闘、そして反乱防止の事情等を、つぶさに観察していた。先任将校の指揮統率は、計画を立てて情に溺れず、寛厳よろしきをえて、理想的になされていたと思っていた。

 しかし、戦後の戦友会で、隊員たちが先任将校の殺害を、蜜かに企てていたことを知り、いまさらながら驚いた。食べ物も水もない、狭いカッターの中で、大勢の人が押し合いへし合いしている。前途に、明るい見通しはまったくない。命令を出す指揮官に、前後に見境もなく凶行に及ぼうとしていたことは、当時の状況がいかに切迫していたかを物語っている。

 戦後の私は、海難を調査、研究してみた。戦時、平時を問わず、毎年、世界各地で、大勢の人たち(ある調査では二十万人)が海難事故に出会い、相当数の人たちが死亡していることを知った。そしてその原因が、海難事故そのものによることもあるが、前途を悲観しての自殺とか、仲間内の争いによるものが、相当数にのぼっている。人間は、ビタミン・カロリー等の不足による肉体的条件では、世間の常識を上回って生きつづけることができる。その反面、自信を失ったり、失望したりの精神的ショックには、きわめてもろいことを、体験的に知った。

 名取短艇隊が、食量も真水もなく、航海要具も持たず、三百マイルも漕いで接岸を目指すことは、海軍常識ではまず不可能だった。しかし先任将校の断固たる決心と隊員の渾身の努力により、ついに不可能を可能にした。諦めずに努力して運命を切り開き、「神は自ら助くる者を助く」という言葉を、身をもって体験することができた。平時でも戦時でも、団体行動をする人たちにとって、とくに生命の危険にさらされたときに、なんらかの御参考にになれば、筆者望外の喜びである。

 本書の独断や偏見に遠慮のない御叱正と、読者諸賢の海難事故など御教示たまわれば幸いです。

松永市郎

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森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

@koudachinaoki 貴重なお話をありがとうございます。私の祖父が、巡洋艦『名取』に乗艦しておりました。沈没時には既に異動しておりましたが、松永市郎さんの著書『先任将校~運命を切り拓いた若者の集団 軍艦名取短艇隊帰投せり~』は日本の学校の教科書に取り上げてほしいですね。

2012-06-21 23:10:47
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森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

@koudachinaoki ご紹介をありがとうございます。今度読んでみます。戦記物は神立さんが先日Twされたような有名だけどフィクションであるものや玉石混交の印象であり、このように紹介していただけると大変有難いです。松永さんの著書も電子化が進むといいですね。

2012-06-21 23:46:23
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森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

@koudachinaoki 紙の本の大切さはよくわかります。ただ海外で昔の日本語の本をすぐに入手するのは難しく、電子版は有難いです。『永遠の0』を知ったのも漫画書籍の電子版をネットで読んだことが最初で、百田さんの原作を読んだのはその後になりました。(^^;)

2012-06-22 00:54:33
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

船が沈没後の遭難といえば、JFK大統領が海軍中尉時代、魚雷艇PT-109 に乗船中に日本の駆逐艦『天霧』と衝突、海に投げ出されて仲間を助けながら遠泳して助かった話もありますね。捏造説もありますが、彼が全米で一躍有名になったきっかけでした。 http://t.co/jhSHl8FA

2012-06-21 10:15:33
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森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

@koudachinaoki 貴重なTwを使わせていただきました。問題やご要望があれば対応しますのでご連絡を頂ければ幸いです。Tw まとめ巡洋艦 名取とその後について ~生存者195名のカッターによる13日間の櫓漕、.. http://t.co/S0AXHbAb

2012-06-22 00:02:22
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森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

@koudachinaoki 御意。とても悲しいことですが仰る通りです。一方で、ケネディ海軍中尉の遭難が(一部で疑惑があるものの)、米国民に勇気を与える大変な英雄伝になったことを思うと、『名取』短艇の帰還の逸話は日本国民として広く語りつがなければと思います。。。

2012-06-22 00:49:44