マンガ表現の分析のおける「選択の体系」の必要性

まとめました。
泉信行 岩下朋世 マンガ論
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田中秀臣 @hidetomitanaka
なぜ経済学的手法をマンガ研究に適用するのかというと、マンガ評論の流れをみると、「自分語り」からマンガ表現論へ、という流れみたいなのがある。論者の恣意性から客観性への移行みたいな。ところがマンガ表現論にはその客観性を保証する選択の体系が欠如しているので、結果的に自分語りと同じに。
田中秀臣 @hidetomitanaka
経済学が保有している選好の体系は効用主義と批判したり主観主義と批判することは可能なのだが、そもそも既存のマンガ表現論にはその批判を行うだけのベースすらも存在していない。なぜなら誰もいままであるマンガ表現がその他のマンガ表現よりも選好されたのはなぜか、を論証してないから。
田中秀臣 @hidetomitanaka
ある書き手でも読み手でも、なぜその表現をほかの表現によりも選好したのか、あるいはある表現をなぜほかの表現よりも好んで読んだか(消費したのか)を順序付けることができないために、マンガ表現論は泉信行、伊藤剛、夏目房之介らすべて単なる表現の標本学であり、原理的には「自分語り」と同じまま
田中秀臣 @hidetomitanaka
そしてマンガ表現論はこの種の主体的選択の問題をスル―したまま、アフォーダンスとかw ある種の社会決定論的なものに依存するようになっているみたい。まあ、経済学の歴史を流用すれば、経済学がないのにいきなり反経済学にふれるとかそんな感じ。
田中秀臣 @hidetomitanaka
ササキハラゴウさんの業績なんかも、マンガ学ではなく、いっきにその確立(主体的選好の学問)を通り越して、反マンガ学に着地してしまいそうな感じw まあ、それでいいのならとめないがw わりとそういうのって安易な途なんだよね。
泉信行 @izumino
@hidetomitanaka 実作寄りの夏目・伊藤表現論はさておき、ぼくの場合は「作品の表現がどこから来る(作られる,選ばれる)のか」はそもそも論の枠内に入れてないんですが、そういう話でもないんでしょうかね
田中秀臣 @hidetomitanaka
泉さんの『冒険』下巻を例にすると視線の力学の話題というのは、マンガという財をめぐる消費者側の選好を示すものです。特に視点の選択についての消費者=読者の選好を顕示するものと考えられますRT @izumino @hidetomitanaka 実作寄りの夏目・伊藤表現論はさておき、
泉信行 @izumino
上巻の序で前置きした「習慣」に当てはまる所の話ですね RT @hidetomitanaka: 泉さんの『冒険』下巻を例にすると視線の力学の話題というのは、マンガという財をめぐる消費者側の選好を示すものです。特に視点の選択についての消費者=読者の選好を顕示するものと考えられます
田中秀臣 @hidetomitanaka
このとき場合も、ある視線の選択が別の視線の選択よりも好まれたのか(選ばれたのか)、泉さんの本には書かれていません。夏目ー伊藤さんたちと同様に、いくつかの視線の選択の可能性(これを選択可能性集合と名付けます)が例示されているだけです。ここに表現論の問題があります@izumino
泉信行 @izumino
@hidetomitanaka 「習慣」がいかに形成されるかについては、アカデミックな研究に丸投げ、っていうのが上巻時点でのスタンスでしたが、それにもし応える研究の可能性があるなら願ったりかなったりではあります
田中秀臣 @hidetomitanaka
経済学には不幸にしてw「習慣形成仮説」というものまで発展しているのです@izumino
泉信行 @izumino
「習慣が決める」→有意なデータが揃う研究待ち/それまではデザイン工学を応用 って感じですね、上下巻の時点では RT @hidetomitanaka: このとき場合も、ある視線の選択が別の視線の選択よりも好まれたのか(選ばれたのか)、泉さんの本には書かれていません。
田中秀臣 @hidetomitanaka
ただ他分野の問題というよりも、ある視線(or表現)がなぜ他の視線(表現)よりも選ばれたのか、それが主観か、習慣か、社会か、いずれでもいいのですが、その選択の体系を明示しないと、ただの標本学になってしまい、選択の体系を「自分」であると放棄している自分語り論と同じに@izumino
泉信行 @izumino
@hidetomitanaka 選択可能性(無意識に選ばれる可能性のある結果)のモデルの提示と、積極的読解(意識的にそこから選ぶ読み)の提示は分けて行っているので、「なぜ選択されたかを書いていない」というより「選択の体系と、その選択結果は分けて書いている」という認識ではいますね
泉信行 @izumino
@hidetomitanaka あとは、そもそも娯楽でも芸術でもいいのですが、文芸関係の研究に「これこれこのようにして選ばれる」というメカニズムの解明が果たして必要なのか、ということは別問題として俎上に上げられるべきなのでしょうね
田中秀臣 @hidetomitanaka
ここでいう「選択の体系」というのは、ある集合から任意の選択肢をとってきて、Aの選択肢がBの選択肢よりも選ばれることを首尾一貫して提示することです。ただ単に積極的に選ぶ行為に注目しているのではなく、彼がBではなくAを採ったことを一意で決めることを意味するのです@izumino
田中秀臣 @hidetomitanaka
それと「選択可能性」というのは、あくまで選択される蓋然性があるものの集まりのことですので、「選択の結果」とは分けて考えておいたほうがいいと思います。@izumino
田中秀臣 @hidetomitanaka
ただグルンステンが物語計画がコマ枠の選択を決めると書いていたり、浦沢直樹が「この表現はこれしか考えられない」という趣旨の発言をしてます。この発言を「選択の体系」に翻訳すると、彼らが選択の基準に合理性を前提にしていることがわかります。選択メカニズムの解明は重要です@izumino
泉信行 @izumino
@hidetomitanaka さきほどの「選択可能性(無意識に選ばれる可能性のある結果)のモデル」=「選択の体系」というのは、「選択されうる結果の集合を導くモデル」といったところでしょうか。ぼくの漫画論は「表現」を対象に論じるのではなく認知モデルから論じるアプローチですので
田中秀臣 @hidetomitanaka
他にも泉さんの「見えないベクトル」の問題も、視線の選択ですが、その選択が右から左への流れというバイアスがあるようですが、これも選択の体系を明示すれば、合理的なバイアスなのかそうでないのかという問題も理解することが容易になります。@izumino
泉信行 @izumino
@hidetomitanaka ぼくが「いかに作られるか」をほとんど排除して語ろうとしてることと、それゆえにその浦沢直樹の発言も据え置く必要があることにも自分なりの意義があるのですが、それはまた機会があれば詰めたい所ではありますね(微妙に、説明の需要はなさそうでもありますが……)
田中秀臣 @hidetomitanaka
ほかにも斉藤環さんや藤本さんらが取り組んでいるようなジェンダー的視点、より広義にはアイデンティティの問題も選択行為の問題として理解すべきだと経済学は主張するに至っています。@izumino
泉信行 @izumino
創作のレベルでは、漫画はインプロヴィゼーションなのかそれともコンポジションなのか? という議論が関わってくるし、読みのレベルでは、漫画が非常に再読性の高いメディアであることが関わってくるはず。まぁ社会学に関しては浅学ですので、専門のかたの研究に乗っかれるなら乗っかりたい所存ですね
田中秀臣 @hidetomitanaka
ちなみにある一定の仮定のもとで、「いかに読むか」と「いかに作るか」を分けて=分権化した場合の選択の合理性と、作者もまた読者であると考える「いかに読むか」と「いかに作るか」が同じと考えるグルンステン流のやり方の選択の合理性が論理的に等値であるという証明もあります笑@izumino
泉信行 @izumino
@hidetomitanaka あー、とりあえずぼくの認識でも「作るのと読むのは別。でも作者は読者と同じ」というイメージですね
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コメント

半地下のH.イワシタ @iwa_jose 2010年1月15日
@hidetomitanaka氏によるマンガ表現論は「選好の体系」についての問題意識を欠いているために結局は客観性を担保できていない、という問題提起に端を発する@izumino氏の対話(という概略は適切?)。その後、@iwa_jose自身も@izumino 氏とのやりとりをしたので、これも追加しました。
半地下のH.イワシタ @iwa_jose 2010年1月15日
「マンガ表現論」はそこで扱われる表現が選ばれるに至った「選好の体系」についての議論を欠いているため、結局は客観性を担保できていない、とする@hidetomitanaka氏の問題提起(という理解で良いか)に端を発する@izumino氏とのやりとり。追加で@izumino氏と@iwa_jose自身のやりとり。
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