もしニーチェがカント・シュティルナーを読んでいたら?-ハイデッガーとシュタイナーの指摘-
- Abraxas_Aeon
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ニーチェの永劫回帰や真理に、ショーペンハウアーが強く影響していたことは明らか。ニーチェが晩年になっても、ショーペンハウアーの思想からの影響は大きかったと考えられるのではないかな~。
2010-06-29 18:44:35ニーチェは、美しいものと美とについて、何を説いているか。この問いに対する解答を求めても、ニーチェが我々に与えているものは、個々の断片的命題、いわば叫びや示唆でしかない。根拠と構造を備えた叙述は、どこにも見当たらない。(ハイデッガー)
2010-06-29 19:29:26美についてのニーチェの命題を包括的に内容的に理解するためには、ショーペンハウアーの美学的見解に立ち入ればよいように見える。というのは、美の規定においてニーチェはショーペンハウアーに対する対向から、従ってそれの転倒から、思惟し判断しているからである。(ハイデッガー)
2010-06-29 19:32:18けれどもこの行き方は、敵手として選ばれた者自身がしっかりした根拠に立たずによろめいている時には、かえって厄介な結果を招くことになる。実際、ショーペンハウアーが主著『意志と表象としての世界』の第三巻で講じている美学的見解は、そういうものだったのである。(ハイデッガー)
2010-06-29 19:36:41それは遠くからでもヘーゲルの美学に匹敵しうる美学とは、とても呼べないものである。内容的には、ショーペンハウアーは自分が罵倒したシェリングとヘーゲルに依存している。彼が悪罵を浴びせないのは、カントであるが、その代わり彼はカントを根底から誤解している。(ハイデッガー)
2010-06-29 19:39:38カント美学のこの誤解にニーチェも屈服し、その誤解が今日なお流行しているのであるが、ショーペンハウアーはこの誤解の発生と準備に主役を演じたのである。カントが美学を論述した著作『判断力批判』は、これまでもっぱら誤解に基づいて影響し続けてきた、ということができる。(ハイデッガー)
2010-06-29 19:42:45これは哲学の歴史には付きものの過程である。ただ一人、シラーだけが、美ついてのカントの教えの本質的な要所を把握していたが、彼の認識も19世紀の美学理論によって塵に埋められてしまった。(ハイデッガー)
2010-06-29 19:45:29カント美学に対する誤解とは、「美しいもの」に関するカントの言明に関る誤解である。この規定は『判断力批判』の第二節から第五節で展開されている。これによると、「美しいもの」とは純粋な適意の対象である。カントによると、それは「如何なる関心をも伴わない」適意である。(ハイデッガー)
2010-06-29 19:55:12「趣味とは、ある対象もしくはある観念を、如何なる関心をも伴わない適意もしくは不適意によって評価する能力である。このような適意の対象が、美しいとされる」(カント)
2010-06-29 19:56:49美しいものを「関心なき」適意の対象として規定した時、カントは何を言おうとしたのか。「如何なる関心をも伴わぬ」とは何のことか。関心(Interesse)という言葉は、ラテン語のmihi interest(それは私の気にかかっている)という語法から出ている。(ハイデッガー)
2010-06-29 20:15:00或るものに関心を抱くとは、それを自分で(所有し、使用し、支配するために)持とうと意志することである。或るものに関心を抱く時、我々はそれを用いて自分が企て意欲している目論見の中へそのものを置く。
2010-06-29 20:18:53我々が関心を抱いている或るものは、初めからもう一つの事柄への狙いから取り上げられ、その観点から表象されているのである。
2010-06-29 20:21:01カントの「美の本質への問い」の提起。「自分に出会うものを美しいと感じる態度は、何によって規定されるが故に、美しいものを美しいものと感じるのであろうか。或るものを美しいと思うことの規定根拠はどのようなものであるのか」
2010-06-29 20:26:35「美しいと思う」ことの規定根拠が何であり、従って美そのものが何であるかを積極的に述べる前に、カントはまず、そのような規定根拠の地位に出しゃばってはならないものを退けている。それが即ち、「関心」なのである。というのは、以下の通りである。(ハイデッガー)
2010-06-29 20:32:03・或るものを美しいと感じるためには、我々は自分に出会う物事そのものを、どこまでもその物事自身として、それが具えている固有の位階と品格のままに、心むなしく迎え入れなくてはならない。
2010-06-29 20:35:15・我々はその物事を、はじめから他の事柄-我々の目的や意図ととか、それが与えそうな享受や利得とか-を顧慮して、計算に入れることは許されない。
2010-06-29 20:36:53@Abraxas_Aeon 逆に美が先行して関心が後からついてくるのはカント的にはOKってことか。となると美しいと感じる半ば無意識的な行為を自覚した際に「これって関心が先か美が先か」って判断できるのかな
2010-06-29 20:39:14美しいものそのものへの関りは、カントの言葉で言うと、「自由な好意」である。我々はそこに出会うものをそのあるがままの姿で、その通りに開放し、それに固有のもの、それが我々にもたらすものを、その通りの姿で、それに湛えさせる好意を持たなくてはならない。(ハイデッガー)
2010-06-29 20:40:12@objectevede 難しいですねぇ。しかし、「美しいと感じる」無意識的な行為というのはそもそもそれまで関心がなかったが、その或るものを目にして「これは美しい」と感じた場合などは、「関心」はそもそも先行してはいないかと。
2010-06-29 20:49:35@Abraxas_Aeon なるほど。たとえそれを美しいと感じた結果それとは無関係なところで利益が発生したとしても、無関係である以上は関心とは切り離されたところに美が発生している訳ですね。納得です。
2010-06-29 20:52:39@objectevede ありがとうございます。ただ、これは今から説明する難しいところでもありますが、このカントの言う「自由な好意」が「無関心」であることなのか、「意志を停止させることなのか」というとまた違う側面があるかと思います。今まとめてみますね。
2010-06-29 21:09:56カントのいう「自由な好意」、即ち「美しいものをひたすらその在るがままのものとして存在させること」は果たして「意志を停止させること」なのか、「無関心」なのか。ハイデッガーはそうではないという。
2010-06-29 21:20:57