- 1579_kagetora
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ご存知の通り八王子城は兄 北条氏照の居城だ。築城の際には、織田殿の安土城を参考にしたとも言われている。落城時はまだ未完成であったと考えられているようだな。
2012-06-23 00:19:39氏照兄上だが、八王子城築城以前は滝山城に入ってらしたが「滝は落ちる」というのを嫌ったとも、武田殿に滝山城の三の丸まで陥落された為さらに強固な城を築城したとも言われている。
2012-06-23 00:24:12前田殿は事前に「八王子城を早々にお渡し願いたい。さもなくば即、攻め落とす」と伝えていたそうだが、城の方では使者を切り捨ててしまったそうだ。
2012-06-23 00:41:24前日の22日は、かなり深い霧であったらしい。攻撃は夜も明けぬ丑の下刻とも夜八ツ時とも言われている(午前1〜3時くらいと思っていただければ良いだろう)城下の根古屋地域は丑の刻には落ちたそうだが、霧のために城の方では敵の動きが見えていなかったようだ。
2012-06-23 00:48:13実は、この戦いの詳細はあまり良く分かっていないらしい。ただ、根古屋から麓の曲輪「近藤曲輪」「山下曲輪」から順に落とされて行ったという。この「山下曲輪」が落ちた頃、東の空が白んできたと言われている。
2012-06-23 00:53:36「山下曲輪」を陥落させた後、豊臣勢は「御主殿」を攻めたようだ。字を見ても分かるように、ここは兄上の館があったと言われている場所になる。この際、義姉上や家臣の妻子が滝に身を投げたと伝わっているそうだ。
2012-06-23 01:06:23@reki_nari 身を投げたと言われている滝なのだが、かなり小さい。恐らくは自害して身を投げたのではないかと言われているようだ…。この滝に繋がる城山川は水が真っ赤に染まり、それが三日三晩続いたと…。
2012-06-23 01:09:29前田軍はその後「金子曲輪」を攻め、城方と銃撃戦になった。この戦では銃がかなり使われたようで、鉄砲の音が雷のようだった。と伝わっている。
2012-06-23 01:14:34前田軍が「金子曲輪」を陥落させている間、上杉軍は山頂の曲輪を攻めている。城内に詳しいものに案内させていたと言われていて、水の手(城の北側の棚沢)から奇襲を仕掛け「小宮曲輪」が危機に陥ったそうだ。この頃には、次の軍勢が城を攻め始めていた様で、城側から内通者が出たとも…。
2012-06-23 01:22:48城に詰めていた重臣の殆どは討ち死もしくは自害したとも言われている。「山頂曲輪」「松木曲輪」からは焼けた櫛が出土している。恐らくは敵方もしくは城方が火を付けたのであろうな…。
2012-06-23 01:27:47榊原康政殿が伝えるに、八王子城の戦いは早朝に終わったとのこと。この戦で亡くなった方は、城方、攻め手あわせて千をこえたとも言われている。
2012-06-23 01:34:25八王子城を攻めるまでは、城方を降伏させて開城すると言う形を取っていた豊臣方なのだが、この城攻めに関しては小田原に籠城している兄上達への見せしめなのか、徹底的に攻撃をしている。
2012-06-23 01:41:40討ち死にした武将の首は、小田原城に届けられ、戦が終わった後に生け捕られた女性の内、小田原に籠城する者に関係する女性は小田原城から見える海上に船で連れて行かれたとか。小田原までの道のりはみずぼらしい姿のままで歩かされていたようだ。
2012-06-23 01:44:47八王子城の落城を聞いた氏照兄上は、床を叩いて号泣し嘆かれたとの事だ。攻めた前田殿が「名城ゆえに犠牲が多く出た」と残している。もしも、兄上が八王子城に籠城していたとしたら、前日からの霧が無ければ、一日で落城という事は無かったかもしれないな…。
2012-06-23 01:53:10書くのを忘れていたが、前田・上杉・真田の北国軍は、およそ一万五千。対する八王子城方は千にも満たなかったと言われている。
2012-06-23 01:55:04小田原が開城するまでだが…。八王子城落城の翌日の6月24日に氏規兄上が韮山城を明け渡す事となる。また、6月26日に石垣山に城が出来たと言われている。そして、7月5日氏直殿が氏房殿とともに徳川殿の陣に赴き、降伏する。
2012-06-23 02:31:07