渡邊芳之氏vs神條 遼氏による「科学とは何か?論争」

歴史学などが科学であるかどうかの論争です。 以前に自前の論争ですが、hazama*3氏と近いテーマで言い合ったことあって、感慨深くて、まとめてみました。 検索して、メインの論争とその他に分けて並べただけです。 見出しやメインかどうかの分類は、まとめた僕の主観です。 拾い忘れもあるかも…。 続きを読む
22
渡邊芳之 @ynabe39

月曜が休みであるほど幸せなことはない。

2012-06-25 00:21:41

渡邊さん。「科学とはバカでも大丈夫な学問ではないか?」と考える。

渡邊芳之 @ynabe39

「相手は頭が悪いから自分とは違う考えになっている」と考えるとき、ほとんどの場合で実際は「相手が自分と違う考えを持っているから頭が悪いと感じている」だけである。いっぽう自分と同じ考えの人は概して賢そうに見える。

2012-06-25 06:26:21
渡邊芳之 @ynabe39

「相手が自分と同じ考えなのはバカだからである」可能性は常に十分にある。

2012-06-25 06:28:02
渡邊芳之 @ynabe39

なにかを考えるときに「自分がバカであった場合の保険」を外部的に用意しておくのが「科学」である。「客観的なデータ」は第一義的に「科学者がバカでも間違った結論をしない」ためにあり、他人をバカだというためにあるのではない。

2012-06-25 06:34:07
渡邊芳之 @ynabe39

科学的な態度とはつねに「自分はバカかもしれない」と思うことである。

2012-06-25 06:36:12
白薔薇 @tikaraninaritai

@ynabe39 経済学者は科学的思考に欠ける人が多いのでしょうか?自分がバカだと思っている人は少なそうです。

2012-06-25 06:45:52
渡邊芳之 @ynabe39

科学的方法のアドヴァンテージというのは「学者がバカでもそれほどバカな結論は出せない」ということに尽きる。

2012-06-25 07:28:02

「科学はバカでも大丈夫システム」から「システム無き人文学はバカだと困る」という展開にセノにゃん氏らとの対話が加わる。

渡邊芳之 @ynabe39

いっぽう人文学はあくまでも「学者がバカでなくなること」でバカな結論が導かれることを防ごうとする。だから学者がバカならどんなバカな結論でも可能になる。

2012-06-25 07:29:31
渡邊芳之 @ynabe39

科学的方法を用いることができるのは時間軸方向かケース方向かのいずれか,できれば両方で反復されるような事象だけである。「繰り返し起きる」か「みんなに起きる」かのいずれか,あるいは両方。

2012-06-25 07:32:59
渡邊芳之 @ynabe39

だから究極の人文学は歴史学である。歴史そのものは原理的に一回性の事象だから。ただし歴史についても「反復(のようなもの)」に注目すれば「科学っぽい歴史学」は可能だと思う。

2012-06-25 07:35:37
セノにゃん @ceno_sougou

厳密に言えば科学も同じく、原理的に一回性の宇宙から反復(のようなもの)に注目してるだけです。 @ynabe39 だから究極の人文学は歴史学である。歴史そのものは原理的に一回性の事象だから。ただし歴史についても「反復(のようなもの)」に注目すれば「科学っぽい歴史学」は可能だと思う。

2012-06-25 07:40:43
渡邊芳之 @ynabe39

その意味である事象を科学的に扱うか人文学的に扱うかは「カテゴリー化の問題」ということができる。複数の事象の「似ているところ」に注目してカテゴリー化すれば時間方向にもケース方向にも反復は生じやすくなる。いっぽう「違うところ」に注目すれば反復を観察するのは難しい。

2012-06-25 07:55:42
渡邊芳之 @ynabe39

カテゴリー化の「レベル」に応じて,それらの事象の一回性の部分や個人的な部分は捨象されていく。それでも共通の部分について知ることに価値をおくのが科学で,捨象される部分を気にするのが人文学である。

2012-06-25 07:57:50
渡邊芳之 @ynabe39

中谷宇吉郎の「科学の方法」に「木の葉が落ちるありさまを科学的に研究することは難しい」という話が出てくる。木の葉の落ち方はきわめて多くの変数に影響されていて,その結果として一回性が高いからである。

2012-06-25 07:59:40
セノにゃん @ceno_sougou

もとより歴史学の根拠は大量の古文書や出土品によるデータなので、人文学の中ではわりと科学に近いと思います。RT @ynabe39 究極の人文学は歴史学である。歴史そのものは原理的に一回性の事象だから。ただし歴史についても「反復(のようなもの)」に注目すれば「科学っぽい歴史学」は可能

2012-06-25 07:59:11
渡邊芳之 @ynabe39

「文献」は「データ」なのか,出土物のような資料は「データ」なのか,ということには議論がありうると思います。RT @ceno_sougou: もとより歴史学の根拠は大量の古文書や出土品によるデータなので、人文学の中ではわりと科学に近いと思います。

2012-06-25 08:01:01
渡邊芳之 @ynabe39

文献などの「他人が言ったこと」も「データ」であるなら,自分が個人的に考えたことをデータとしない理由はなくなってしまう。

2012-06-25 08:02:31
@neet_at_work

@ynabe39 @ceno_sougou 僕の感覚だけど科学って今を調べて単純化して数式にしてその式を時間で積分して未来を想像したりするものであって過去を調べることではないのでは?例、ma=fを時間で積分してエネルギー保存則、みたいなの。

2012-06-25 08:14:37
セノにゃん @ceno_sougou

それを言い出すのなら科学でも、実験の記録(特に他人に委託したもの)はデータなのか、標本のような資料はデータなのか、という議論がありえてしまいます。 RT @ynabe39 「文献」は「データ」なのか,出土物のような資料は「データ」なのか,ということには議論がありうると思います。

2012-06-25 08:11:14
渡邊芳之 @ynabe39

実際そうだと思いますよ。標本の分類学なんて極めて質的な手続きですからね。RT @ceno_sougou: それを言い出すのなら科学でも、実験の記録(特に他人に委託したもの)はデータなのか、標本のような資料はデータなのか、という議論がありえてしまいます。

2012-06-25 08:17:10
渡邊芳之 @ynabe39

「歴史学も科学である」というような言い方は「科学であることが望ましい」という価値観と結びつかないとあまり意味がないと思う。しかしこの「似ているところがあれば科学の仲間に入れてしまおう」という考え方はすぐれて「科学っぽい」カテゴリー化といえる。

2012-06-25 08:19:14
@neet_at_work

@ynabe39 共通の場所を見つけて同じ数式が成り立つはずと考えて単純化した数式にしてみて微分方程式にしてみて動きを予想してみるのが科学かと思ってます。例はバネの単振動とか。

2012-06-25 08:20:31
渡邊芳之 @ynabe39

「データに依拠していれば科学である」という考え方は「インチキ科学」の格好のカモであると思う。

2012-06-25 08:20:40
1 ・・ 6 次へ