渡邊芳之先生@ynabe39の「科学的な態度とはつねに「自分はバカかもしれない」と思うことである。」

なにかを考えるときに「自分がバカであった場合の保険」を外部的に用意しておくのが「科学」である。「客観的なデータ」は第一義的に「科学者がバカでも間違った結論をしない」ためにあり、他人をバカだというためにあるのではない。 あなたがバカであることになにかの責任がある人がいるとすれば,あなたの親とあなたの先生です。私は私の子どもの親であり私の学生の先生ですが,あなたの親でもなければあなたの先生でもありません。甘えるな。by 渡邊芳之
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渡邊芳之 @ynabe39

みなさんが大好きな「ふつうの常識」というのがそもそもなにで決まるのかという問題。「(事実であれ幻想であれ)そう信じている人が大多数であると認識すること」でしょう。そのくらい「人数」というのは大事です。

2012-06-24 09:13:27
渡邊芳之 @ynabe39

そういう意味で「人の認識を信じない」のが科学。 RT @yutakioka: @ichimiyar 現実的な方法という意味では、それは理解できるのですが、その原則を無批判に認めてしまうのは弊害が大きいかなと思いました。

2012-06-24 09:14:35
渡邊芳之 @ynabe39

「相手は頭が悪いから自分とは違う考えになっている」と考えるとき、ほとんどの場合で実際は「相手が自分と違う考えを持っているから頭が悪いと感じている」だけである。いっぽう自分と同じ考えの人は概して賢そうに見える。

2012-06-25 06:26:21
渡邊芳之 @ynabe39

「相手が自分と同じ考えなのはバカだからである」可能性は常に十分にある。

2012-06-25 06:28:02
渡邊芳之 @ynabe39

なにかを考えるときに「自分がバカであった場合の保険」を外部的に用意しておくのが「科学」である。「客観的なデータ」は第一義的に「科学者がバカでも間違った結論をしない」ためにあり、他人をバカだというためにあるのではない。

2012-06-25 06:34:07
渡邊芳之 @ynabe39

科学的な態度とはつねに「自分はバカかもしれない」と思うことである。

2012-06-25 06:36:12
渡邊芳之 @ynabe39

科学的方法のアドヴァンテージというのは「学者がバカでもそれほどバカな結論は出せない」ということに尽きる。

2012-06-25 07:28:02
渡邊芳之 @ynabe39

いっぽう人文学はあくまでも「学者がバカでなくなること」でバカな結論が導かれることを防ごうとする。だから学者がバカならどんなバカな結論でも可能になる。

2012-06-25 07:29:31
渡邊芳之 @ynabe39

科学的方法を用いることができるのは時間軸方向かケース方向かのいずれか,できれば両方で反復されるような事象だけである。「繰り返し起きる」か「みんなに起きる」かのいずれか,あるいは両方。

2012-06-25 07:32:59
渡邊芳之 @ynabe39

だから究極の人文学は歴史学である。歴史そのものは原理的に一回性の事象だから。ただし歴史についても「反復(のようなもの)」に注目すれば「科学っぽい歴史学」は可能だと思う。

2012-06-25 07:35:37
渡邊芳之 @ynabe39

その意味である事象を科学的に扱うか人文学的に扱うかは「カテゴリー化の問題」ということができる。複数の事象の「似ているところ」に注目してカテゴリー化すれば時間方向にもケース方向にも反復は生じやすくなる。いっぽう「違うところ」に注目すれば反復を観察するのは難しい。

2012-06-25 07:55:42
渡邊芳之 @ynabe39

カテゴリー化の「レベル」に応じて,それらの事象の一回性の部分や個人的な部分は捨象されていく。それでも共通の部分について知ることに価値をおくのが科学で,捨象される部分を気にするのが人文学である。

2012-06-25 07:57:50
渡邊芳之 @ynabe39

中谷宇吉郎の「科学の方法」に「木の葉が落ちるありさまを科学的に研究することは難しい」という話が出てくる。木の葉の落ち方はきわめて多くの変数に影響されていて,その結果として一回性が高いからである。

2012-06-25 07:59:40
渡邊芳之 @ynabe39

「文献」は「データ」なのか,出土物のような資料は「データ」なのか,ということには議論がありうると思います。RT @ceno_sougou: もとより歴史学の根拠は大量の古文書や出土品によるデータなので、人文学の中ではわりと科学に近いと思います。

2012-06-25 08:01:01
渡邊芳之 @ynabe39

文献などの「他人が言ったこと」も「データ」であるなら,自分が個人的に考えたことをデータとしない理由はなくなってしまう。

2012-06-25 08:02:31
渡邊芳之 @ynabe39

実際そうだと思いますよ。標本の分類学なんて極めて質的な手続きですからね。RT @ceno_sougou: それを言い出すのなら科学でも、実験の記録(特に他人に委託したもの)はデータなのか、標本のような資料はデータなのか、という議論がありえてしまいます。

2012-06-25 08:17:10
渡邊芳之 @ynabe39

「歴史学も科学である」というような言い方は「科学であることが望ましい」という価値観と結びつかないとあまり意味がないと思う。しかしこの「似ているところがあれば科学の仲間に入れてしまおう」という考え方はすぐれて「科学っぽい」カテゴリー化といえる。

2012-06-25 08:19:14
渡邊芳之 @ynabe39

「データに依拠していれば科学である」という考え方は「インチキ科学」の格好のカモであると思う。

2012-06-25 08:20:40
渡邊芳之 @ynabe39

生物学の中で博物学的な分類学がどうして不遇をかこうかというのもこの「科学とデータの関係」の問題とちゃんと関係している。

2012-06-25 08:22:05
渡邊芳之 @ynabe39

「人文科学」という用語がいかに意味のない都合のよいものであるか,という話は前にずいぶん時間をかけて述べました。 RT @nobuo_kimura: ( εHε)つ「人文科学」…蝦夷地だとこれで教員がつとまるのかなぁ…

2012-06-25 08:23:29
渡邊芳之 @ynabe39

「似ている事象は同じ事象」と考えればその事象は時間軸方向にもケース方向にも反復しやすくなって客観的なデータが得やすくなるし,「似ているけど違う事象」と考えれば反復しにくくなって客観的なデータは得られない。

2012-06-25 08:25:31
渡邊芳之 @ynabe39

心理学者という立場からは,「文献」や「資料」は「科学的なデータ」ではないと思う。

2012-06-25 08:28:10
渡邊芳之 @ynabe39

「歴史は繰り返す」と考えるならば歴史も科学の対象になるだろう。ただその「繰り返す」ということの基準やカテゴリーが相当に甘くならざるをえないところが難しいのだと思う。

2012-06-25 08:34:24
渡邊芳之 @ynabe39

「科学の線引き論争」は1980年代以降は「いま現に科学として行われていることや,それを支えるコミュニティ自体が科学」というところに収斂していると思います。私はいつも「そのコミュニティが(多くは暗黙裏に)共有しているもの」について述べています。@kandemo

2012-06-25 08:48:17
渡邊芳之 @ynabe39

文部省が新制大学の教育課程編成の時に学問を「人文科学,社会科学,自然科学」に分類したわけです。「人文科学」という日本語はそのときに文部官僚が作ったと言われています。RT @ShunActU: wikipediaの学問の項目…科学にあらずんは学問にあらず感が浮き出ていて好きな表現

2012-06-25 08:50:11