「敗戦」を理解する――赤澤史朗(1994)「戦後思想と文化」

 1945年8月15日、いわゆる「玉音放送」をきっかけに、日本のひとびとは戦争の終結を知ることになります。ポツダム宣言の受諾、連合国への降伏、したがって彼らにとって端的に敗戦を意味したはずのこの出来事を日本のひとびとはどのように受けとめたのでしょうか。赤澤史朗「戦後思想と文化」(中村政則編『占領と戦後改革』、吉川弘文館、1994年、所収)からの抜粋のまとめです。 Amazon: http://amzn.to/MYeLJN 続きを読む
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[book] 読. 良書. 占領期入門にまずこの一冊. / 中村政則(1994)編著『占領と戦後改革(近代日本の軌跡)』 http://t.co/JPeYuWJX

2012-06-28 00:05:10
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[paper] 赤澤史郎「敗戦のなかの民衆」 in: 中村政則編(1994)『近代日本の軌跡6 占領と戦後改革』(吉川弘文館), pp.174-195

2012-06-28 00:49:30
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「敗戦は、多くの国民にとってどのように受け止められたのであろうか」(p.174)

2012-06-28 00:51:11
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「まずその反応の一方の極は、敗戦を否定的に受け止める反応で、日本が無条件降伏したことに対し、残念無念だと悲憤慷慨したり、落胆して何もする気がなくなったりするというのがこれに当たり、ともかくも悔しかったというのはこの反応である」(赤澤史郎(1994:174))

2012-06-28 00:53:09
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「他方の極は、ほっとした、安心したというもので、これで今晩から空襲警報に脅かされることなく朝までゆっくり寝られるとか、灯火管制をやめて家中を明るくできるとかいう、つまりは戦時下の異常事態から戦争前の日常生活へ復帰できることを喜ぶものである」(赤澤史郎(1994:174))

2012-06-28 00:54:23
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「こうした両極の反応は、同一人のなかにも見られるものであり、国民のほとんどはその人が置かれた立場によって、その両極の間に広がる、いずれかの地点に位置していたのであった」(赤澤史郎(1994:174))

2012-06-28 00:54:47
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「しかしこのような両極の反応の以前に、最初敗戦とは何を意味しているのか解らなかったという感想も聞かれる。ある人は何日か経って、だんだん日本が負けたことが理解できるようになったというのである。これはなぜだろうか」(赤澤史郎(1994:175))

2012-06-28 00:57:12
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「空襲のさなかを生き延びながら、どのみち『私たちは逃れられないのだから死ぬほかはない』と思っていたというある二二歳の女子銀行事務員は、八月一五日について次のような回想をしている」(赤澤史郎(1994:175))

2012-06-28 00:59:35
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「『友達の中には泣いているひともあったが、私はくやしいとよりはもっと複雑な思いがしていた。それは戦争も『やめられるもの』であったのかという発見であった」(赤澤史郎(1994:175))

2012-06-28 01:00:22
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「私には戦争というものが永久につづく冬のような(そんなものは実際にはありはしないのだが)天然現象であり、人間の力でやめられないものような気がしていたのだ』(北山みね、『世界』一九五五年八月)(赤澤史郎(1994:175))

2012-06-28 01:01:02
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「ごく一部には、敗戦とともに異なる行動を取れる人もいた。小出版社の社長であった小川菊松は、出張先で玉音放送を聞いて『溢れ出る涙を禁ずることはできなかった』というが、早くもその日の『帰京の汽車の中で考えついたのは『日英会話』に関する出版の企画だった』という」ibid., p.176

2012-06-28 01:04:34
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「敗戦時の多くの人の回想のなかに、印象深く登場するのが朝鮮人である。学徒勤労報国隊の一員だった女性は、敗戦直後の時期に街に現れて市電を待つ自分たちを押しのけた、『お祭りのような服装』をしている『朝鮮服の一団』について次のように述べている」(赤澤史郎(1994:176))

2012-06-28 01:06:46
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「『口々に朝鮮語でわめいては、どっと笑いくずれるその空気は、明らかに私達を話題にし、嘲笑しているのが感じられた。なぜなのか私には解せなかったが、電車が走り出すとその人達は、乗り遅れた私達に手を振りながら『独立、独立、万歳。』と日本語で叫び、又どっと笑った』」ibid, p.176

2012-06-28 01:09:10
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「日本の敗戦を、自分達にとっての解放と受け取ったアジア人のナショナリズムを、端的に見せつけたこうした事件は、これからのアジアと日本の関係を考える上で大きな意味をもつ事件であったはずだが」(赤澤史郎(1994:177))

2012-06-28 01:11:10
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「しかしこの当時のほとんどの日本人にとって、それは敗戦時の風景の一こまとして以上のものとしては、考えられていなかったのであった」(赤澤史郎(1994:177))

2012-06-28 01:11:29