薛仁貴について
さて、以前に個人的な武勇が勝敗を決した事例として隋書より史万歳を取り上げましたが、今回は、別の事例を旧唐書から取り上げたいと思います。
2012-07-13 12:42:23薛仁貴、名は礼。(この人は字のほうが有名)旧唐書八十三巻列伝第三十三に伝あり。絳州龍門の人。太宗の第一次高句麗遠征に従軍。
2012-07-13 12:47:24安地にて郎将の劉君昂が包囲されていたところ、仁貴は馬を敵将の前に踊らせ、その首を撥ね、鞍にかけた。敵軍は恐れおののき、降伏した。
2012-07-13 12:50:53さて、唐軍は大軍を以って安置城を攻めようとしますが、対する高句麗軍は高延寿らを派遣して、これを守らせようとします。
2012-07-13 12:56:48太宗は四方からこれを攻撃するのですが、このとき薛仁貴は「仁貴自恃驍勇、欲立寄功、乃異其服色、著白色、握戟、腰鞬張弓、太呼先入、所向無前、賊蓋披靡却走」と大活躍、このあたりの描写は颯爽たる白衣白甲の青年騎士を脳裏に描き出させてくれるのですが……
2012-07-13 13:09:55まぁ、後のことは今は置いときましょう。この大活躍が太宗の目に留まり、馬と絹を下賜され、遊撃将軍の位も授かることになりました。薛仁貴の「白衣白甲で大暴れして目立つぞ」作戦は大成功だったわけです。
2012-07-13 13:12:44さて、話を元に戻すと、太宗は薛仁貴をよほど気に入ったらしく「朕と共に戦ってきた将は皆置いてしまった。驍勇の士を探してきたが、卿に勝るものはいない。朕は遼東の地を得たことよりも、卿を得たことを喜ぶ」とまで薛仁貴に言っています。
2012-07-13 13:24:49長安に帰還すると薛仁貴は右領軍郎将となり、都の北門を守備。その後も洪水で皆が逃げる中、急を宮中に告げて高宗を水害から救ったり、蘇定方(名は烈。この人も字のほうが有名。唐代の名将の一人)が西突厥の阿史那賀魯を討った際、残る泥熟には懐柔策を取るように進言したりしています。
2012-07-13 13:41:32その後も薛仁貴は武功を重ねます。敗戦もありましたが、彼が挙げた武勲のなかでももっとも際立っているのが、次に紹介するものです。
2012-07-13 13:44:30「令驍健数十人逆来挑戦、仁貴発三矢、射殺三人、自余一時下馬請降」九姓突厥軍は勇士数十人をして唐軍を挑発したが、薛仁貴が三本の矢を射放すと、全て敵に命中し、三人を射殺した。九姓突厥軍はその神技に恐れをなし降伏した。
2012-07-13 13:54:33薛仁貴は九姓突厥軍をたった三本の矢で制したのです。史書はこの武勲を「将軍三箭定天山、戦士長歌入漠関」と謳い上げます。
2012-07-13 13:57:57と、ここまでは、いかにも驍勇無双の颯爽とした薛仁貴像を書いてまいりましたが、史書には「自余一時下馬請降」に続けて、次のようにあります。
2012-07-13 14:00:24薛仁貴と言えば、白衣白甲の騎士、という、格好良いイメージがありますが、実際にはこのような苛烈な一面もあったのです。
2012-07-13 14:06:18