おっさんの江戸薀蓄

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Randy Hickey @randy_TSK

「相対死」はお上のご法度。「忠」の字を連想するので「心中」の文字使用禁止!女が生き残ったら高札場に晒された挙句に吉原の奴女郎に売り飛ばされますヽ(`Д´)ノRT @Edo_rabbit: 最後の最後まで死ぬ気になれなかった『新口村』梅川忠兵衛を思い出す。そもそも心中なんて私のニン

2012-07-03 07:45:48
Randy Hickey @randy_TSK

因むと江戸時代、遠島にされた人の犯した犯罪のトップ2は賭博と坊主の女犯。永代橋からと、金杉橋から出る船があって、金杉橋から出る船で流される囚人は赦免されるという事で、家族はどちらの舟に載せられたか?を気にしたらしい(´・ω・`)

2012-07-03 07:59:32
Randy Hickey @randy_TSK

江戸薀蓄を喜んでくれるTakaoさんに乗せられてもう一つ。遠山の金さんや大岡越前で有名なお江戸の町奉行が決済出来た刑罰は「中追放」まで。重追放以上、いわんや遠島、死罪は全てご老中にお伺いを立てました。鬼平で有名な火盗改めは手限が無いので全て老中へ仕置き伺いを出さねばなりません。

2012-07-03 08:38:49
Randy Hickey @randy_TSK

(承前)江戸の刑罰は「公事方御定書」をベースに過去の判例を最低3つ調べて決めるという前例主義なので、(江戸)町奉行が例繰方 同心に判例を調べさせ御定書を参照して老中に仕置き伺いを出し、老中は仕置掛奥祐筆に更に判例を調べさせ伺いの妥当性をチェックし、(続く)

2012-07-03 08:52:04
Randy Hickey @randy_TSK

(承前)合わせて評定所一座(三奉行:町奉行、寺社、公事方勘定奉行)にて仕置き伺いの妥当性について議論させ、形式上ではあるけれども遠島以上は上様の裁断を仰ぐプロセスが必要であったので、冤罪が無かったとはとても言えないけれどもそれなりに慎重なプロセスの上で死罪が決まったと言う事は事実

2012-07-03 08:54:57
Randy Hickey @randy_TSK

Takaoさんが喜んで下さるので今日も江戸薀蓄を一つ。「無礼討ち」は実際に武士に許された特権であったんだけど、行使するにはそれなりの覚悟が必要だったらしい。万一討ち漏らし相手が逃げるなんて事があると、お家に「暇乞い」して討ち漏らした相手をしとめるまで帰参叶わず。時には親類も。

2012-07-04 08:47:53
Randy Hickey @randy_TSK

(承前)無礼討ちにも作法があり、無礼討ちをした場所を離れずに検視の役人に事情を説明、もし相手に「無礼」(町人の場合慮外)な振る舞いが有った事が証言等で立証されないと単なる暴力と認定され切腹、改易を含む厳しい処断がありました。届け捨てなんて許されなかったみたいですね。

2012-07-04 08:51:13
Randy Hickey @randy_TSK

無礼討ちが多かった状況は大名行列等の前方を横切る「供先割」、馬の「乗り打ち」(挨拶時に馬から降りない)、刀の鞘当て等。いずれにせよ、「斬捨てご免」にするには①正当な理由を立証できる。②現場を離れず届け出る。③打ち漏らすと失職覚悟 なので武家にも覚悟と気合が必要だった訳ですなwww

2012-07-04 09:00:49
Randy Hickey @randy_TSK

【おまけ】 無礼討ちを行った武士が、二本差でなく脇差だけで相手に討ちかかり、結果討ち漏らした事件に仙台藩は「不届至極」(武士なのに脇差だけで敵に挑む事が不届)として家督継承権剥奪つー事もあったみたいですwww お武家様も面子を守るの大変だったのねー(´・ω・`)

2012-07-04 09:07:53
ヅラ夫ニムだからね @zappa7272

@randy_TSK 仙台藩は御家騒動もあったからことさら厳しかったのかぬー

2012-07-04 09:09:59
Randy Hickey @randy_TSK

@zappa7272 仙台藩に限らず、無礼討ちの特権行使と「士道覚悟」への厳しい要求は義務と権利だったみたいだぬ(´・ω・`) 酔い潰れて刀無くしたりしたら恥ずかしいので「出奔」して逃げるのが当時常識だったらしいずら

2012-07-04 09:12:49
ヅラ夫ニムだからね @zappa7272

@randy_TSK 武士ってただの特権階級じゃないんだよぬー

2012-07-04 09:14:09
Randy Hickey @randy_TSK

@zappa7272 そうそう。色々文献読んでいくと義務も厳しくて大変www

2012-07-04 09:15:20
Randy Hickey @randy_TSK

さて、Takaoさん(だけが)心待ちにしてくれている今日の江戸薀蓄は「食べ物」について。主食のお米、江戸では朝1日分を炊き、京阪では夜1日分を炊いたというのが通説です。江戸の庶民の晩飯が「お茶漬」、京阪の朝ご飯が「おかゆさん」になるのも理に適ってますよねww

2012-07-05 08:24:05
Randy Hickey @randy_TSK

お米といえば、江戸っ子の自慢は「水道の水で産湯を使い、拝み搗きの米を喰う」所謂「銀シャリをたらふく喰う。」大名領の農家は年貢がキツイので白米等は贅沢だったそうですが、基本無税(実際には家賃に水道使用量等が入っている)の江戸の「裏借家人」は菜は質素でも白米をたらふく食べていたとか。

2012-07-05 08:29:46
Randy Hickey @randy_TSK

時代劇では、江戸の庶民はなんでもツケでモノを買い、師走払いなので大晦日は商家はとりたてで大変忙しいといわれていますが、実際にツケで米味噌醤油を買えたのは地主等町の富裕層で、九尺二間の棟割長屋の裏借家人はツケなど効かずw、百相場といって100文で買える分のお米を買っていたらしい。

2012-07-05 08:41:57
Randy Hickey @randy_TSK

白米中心で菜が少ないバランスの悪い食事なので、江戸の死因ナンバー1だったのは脚気、所謂「衝心脚気」だったとか。特に夏は脚気が流行るので、江戸時代は夏が一番人死にが多かったそうで、真夏に熱い「甘酒」を呑む江戸の風習というのは栄養補給の観点からも理に適っておりますな。

2012-07-05 08:46:22
Randy Hickey @randy_TSK

地方から江戸に出てきた人達が脚気に掛かることも多く「江戸わずらい」とも言われたそうで、十代家治公、十三代家定公、十四代家茂公も死因は衝心脚気が死因だったそう。

2012-07-05 08:51:49
Randy Hickey @randy_TSK

面白いなあと思ったのは白いご飯に無くてはならない「納豆」 今では醤油と薬味でご飯に掛けて食べるのが一般的ですが、江戸時代初期は醤油が紀州からの下り物で高価だったので庶民は味噌汁に入れて食べたそうで、今の納豆の食べ方は野田、銚子の醤油醸造技術が確立された江戸中期以降だとかww

2012-07-05 08:54:13
Randy Hickey @randy_TSK

物の本によれば、関東ではご飯のお供としてブッチギリNo.1の納豆が関西では不人気だったのは、我々が普段食べているネバネバの「糸引き納豆」に対して、関西では早くから「大徳寺納豆」や「浜納豆」つー、所謂「塩辛納豆」を食べる文化だったからだという説がござるwww

2012-07-05 08:56:59
Randy Hickey @randy_TSK

以上、今日の江戸薀蓄「江戸のご飯事情」をお届けいたしました|ω・)ノ 

2012-07-05 08:58:16
Randy Hickey @randy_TSK

さて、Takaoさんだけが心待ちにしてくれている今日の江戸薀蓄は、江戸の地図について。「切絵図」と呼ばれた江戸市中の地図、最初に出版したのは吉文字屋という書肆。しかし大当たりさせたのは麹町で荒物屋をしていた近江屋五平という人だそうです。(続

2012-07-06 07:37:08
Randy Hickey @randy_TSK

四ツ谷見附(今の四ッ谷駅の麹町側)の側に有った荒物屋の近江屋さんには、番町の武家屋敷の場所を尋ねる人が毎日引きをきらないので説明用に地図を作って、それを売り出したら大当りしたっていう話が残っていますが、当時の武家屋敷は表札等一切出さないので密集していると訳ワカメだったそうですw

2012-07-06 07:41:57
Randy Hickey @randy_TSK

ここで一つ押さえておきたのは番町の由来。江戸城は大手門、桜田門の東側は低地で、そこから本丸まで急な勾配になっていて防御しやすいのですが、甲州街道が半蔵門に直角にぶつかる西側は高台の地続きで防御に難有りという事で番方と呼ばれる将軍の親衛隊の屋敷を配置したのが番町の由来とか。

2012-07-06 07:46:13
Randy Hickey @randy_TSK

五番方と呼ばれる旗本(大番、書院番、小姓組番、新番、小十人番)は上は5000石取下は200俵取りと大身旗本が多いので、同じ様な作りの旗本屋敷がずらっと密集していると慣れないと迷うのも道理。切絵図には工夫が有り、玄関の方角に向って誰の誰兵衛と縦書に書かれていました。

2012-07-06 07:53:20
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