- tetteikaikyou
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夏侯淵は馬超を追い払った張郃を追って冀に入り、続いて顕親の韓遂を追った。韓遂は逃げて、夏侯淵は略陽に至った。こんな感じか http://t.co/1mDR0xVG
2012-07-15 20:32:19韓遂と二十里余りの距離にいて、興国の氐や長離の羌を攻める話になる理由がよく分からない。興国は、その後のちょろっとした記述からすると韓遂が居た城っぽい。韓遂は氐とも協力していた?と言うよりも、氐の拠点に逃げ込んだのか?
2012-07-15 20:35:20「瓦亭水又南巡成紀県東、歴長離川、謂之長離水。右與成紀水合、水導源西北当亭川、東流出破石峡、津流遂断、故瀆東巡成紀県、故帝太皥、庖犧所生之処也。」長離は成紀県の近傍か。韓遂は顕親から略陽方面に逃げたのだから、夏侯淵は長離と韓遂の間にいたことになる。
2012-07-15 21:05:23興国は氐王千万の居城か。ここに韓遂が駐屯したかは、確実には言えないな。単に興国の氐と合流しようとしていただけかもしれない。でないと、「淵收遂軍糧、追至略陽城、去遂二十餘里、諸将欲攻之、或言当攻興国氐。」という記述が若干不自然
2012-07-15 21:26:59興国があくまで氐王千万の土地であるということを考えれば、場所の推定はできるんじゃないか?略陽とか安定とか、その辺に居た氐について調べれば
2012-07-15 21:53:50魏書武帝紀に拠れば、韓遂は金城に逃げた後、千万の部に入って、羌胡万余騎を率いて夏侯淵と戦った。夏侯淵が興国を包囲したのは、彼らを破った後である。一方で、東夷伝に付された魏略西戎伝よれば、千万は白頃の氐王であり、興国の氐王は阿貴である
2012-07-15 22:55:02昔のことだが、夏侯淵オタか姜維を貶めたい魏オタか知らないが、姜維を「劣化夏侯淵」と言っていたことがあった。恐らく、ニセクロさんのサイトとか見て、機動力云々のところだけ取り上げて言ったんだろう。俺からすれば両者は全く異質
2012-07-15 23:52:21興国と白項の詳細な場所は、調べても出てこなかった。調べ方を変えれば出てくるのかもしれないが、今の所は保留。注目すべきは東夷伝付魏略西戎伝の「西南入蜀」と、敗れた千万が西南に蜀に入ったと書かれていることだ。これを考慮すると、彼らが負けた場所は漢陽以東じゃないかと思う
2012-07-16 11:29:11この夏侯淵の件にしてもそうだが、「~の計略通り事が運びました。」では、何も分からない。夏侯淵が長離を優先して叩いた根拠は述べられているが、その判断を、地理的な要素を無視して語ることは出来ない。だから、長離、略陽、興国の位置関係を知らなければいけないのだが、それを気にする人は少ない
2012-07-16 11:36:38何にしても、千万らは略陽の近くにあったのだろう。韓遂は長離の羌を味方につけた上、阿貴や千万と合流して、夏侯淵に対抗する戦力を得ようとしていた。恐らく、夏侯淵が略陽に着いた時、韓遂自身は興国に達していなかった。「興国討つべし」は、韓遂と千万の合流を妨害する意図だっただろう
2012-07-16 13:15:03夏侯淵は、興国には阿貴と千万が合流しており、地形も険阻で、早急には陥れられないと判断した。合流しようとする敵の一方を撃ち、その合流を防ぐのは内線作戦としては常道だが、失敗すれば包囲を受ける。それよりも、別な目標を撃って敵の機動を制限した方が良い。
2012-07-16 13:18:42所謂、囲魏救趙というやつだ。諸将の意見は、単純な内線作戦である。これと類似した戦況が、三十年後に見える。羌胡と合流しようとする姜維に対し、論者は、姜維と羌胡の間に入り(恐らく)一方を撃破して合流を防ごうとした。対して、郭淮は成重山に廖化を討ってその連合を防いだ
2012-07-16 13:25:38馬超が夏侯淵に敗れた後のことだが、郭淮は夏侯淵の司馬となっていた。このことは、略陽での韓遂討伐と、隴西での姜維討伐での対応の類似性に関係があるのかもしれない
2012-07-16 13:28:40また、両戦役における諸将の進言を考えると、魏軍において、内線作戦が概念としては浸透していた可能性が高い。魏軍が手本にしたのは、恐らくは曹操であり、内線作戦の浸透も彼の影響かもしれない
2012-07-16 13:30:57曹操は内線作戦が好きだ。多用しまくってるから分かる。そして、内線作戦は決まるととてもかっこいい。応用できない人は、それを見て、いつでも単純な内線作戦が有効だと勘違いしてしまう。だから、夏侯淵の時も、郭淮の時も同じような意見を言う。実際は状況に合わせてアレンジしないといけない
2012-07-16 13:37:50郭淮は、かっこつけて姜維と羌胡の連合を防ごうとしたが、夏侯淵と違い、成重山では姜維を防げず、蜀に退いてはくれたものの、姜維と羌胡の連合は防げなかった。郭淮さん、もっと頑張ろうぜ
2012-07-16 13:41:09将のざっくりとした評価は割りとウケても、個々の戦役においての評価や考察はあまりウケない。これは、人物評価は大して前提の知識はいらないが、戦役は地理や軍事などの知識か必要だからだろう。理解するのに労力が必要な内容はウケないのだ
2012-07-16 13:50:58