ヤノマミや発達障害と“我々”は連続しているのか:正常と異常の境界、言葉と因果的思考
- hijijikiki
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●先行するまとめ:
★1「発達障害・アスペルガーへの“支援”とは?相互理解・社会はどこに」http://togetter.com/li/323085
★2「続2)狩猟採集生活するヤノマミと「現代文明人」の心情(感情)・倫理・規範について」http://togetter.com/li/321277
★3「続)狩猟採集生活するヤノマミの感覚を、「現代文明人」は持っているか?」http://togetter.com/li/320274
★4「アマゾンの密林で狩猟採集生活するヤノマミには、「現代文明人」と同様の“内部化された集団心理”があるか?」http://togetter.com/li/318613
からの続きのまとめ。
病んでいるのが自分か彼らなのかという命題に追い込まれたら、本質的な議論は無理で力学論的展開~つまりは数の多く力の強い意見が正当化される~しかないんだから。
2012-06-18 15:10:33@gmax_jp @yukiko419 @A_laragi ツイートを使わせていただきました。⇒「発達障害・アスペルガーへの"支援"とは?相互理解・社会はどこに」 http://t.co/JS9ZmWm5
2012-06-19 00:18:54@hijijikiki まとめ、ありがとうございました。社会モデルについては詳しく知らなかったのでこれを機会に知識強化必要ですね。 @yukiko419 @A_laragi
2012-06-19 03:06:07@gmax_jp @hijijikiki @a_laragi まとめをありがとうございました。発達障害についてまったく不案内ですが、差別問題に共通する非対称性だと思いました。
2012-06-19 09:40:27.@gmax_jp 社会モデルは個人モデル=それまでの主流・体制派、に対する障害者からのアンチテーゼという意味では、資本主義に対抗する社会主義のような側面がある気がします。発達スペクトラムのような連続モデルをどう考えるのかが課題かと。 @yukiko419 @A_laragi
2012-06-19 11:10:35返信ありがとうございます。差別問題との共通点は言語化しにくく、難しいです。コメントありましたらよろしく。RT @yukiko419 まとめをありがとうございました。発達障害についてまったく不案内ですが、差別問題に共通する非対称性だと思いました@gmax_jp @a_laragi
2012-06-19 11:14:55.@hijijikiki 発散の懸念はありつつ、ここしばらく考えさせていただいてきたヤノマミの話題に僕はヒントを予感しています。「こころ」の総体、設定された境界、その認識と溶融の試み。我彼の希薄な世界観。などなど。また考えます。深謝。 @yukiko419 @A_laragi
2012-06-19 11:38:06@hijijikiki 連続モデル、ですがこれはヤノマミの心理構造に対してもった予感を適用して考えられないかと思っています。つまり我々の「こころ」の全体像はほとんど同じであると仮定して、正常と異常、健常と病的の境界は文化や社会が定めているという視点。 @yukiko419
2012-06-19 13:49:50@hijijikiki ユングは自身の心理学を発展させていく過程でとある分裂症患者と出会うことで衝撃を受けました。「太陽にペニスが付いている」という患者の言葉が、古い神話世界に語られている世界観と一致したのです。 @yukiko419
2012-06-19 13:51:18@hijijikiki 「性欲理論ではペニスを男根、太陽を経口と分析できる。しかしミトラ文書(古代アーリヤ人の宗教記述、一般人が読む事は絶対に無い)とまったく同じ内容を述べている」 http://t.co/JiVN2lYN @yukiko419
2012-06-19 13:52:12@hijijikiki このことが、ユングの集合的無意識や自己論、原型論といったものに発展するのですが、病的と形容される状態が実は内在する様々なこころの働きの発現のバリエーションだと解釈できる。 @yukiko419
2012-06-19 13:54:26@hijijikiki これを考えると、(精神障害という視野にまだ限られますが)既存の社会モデルやら個人モデルというものが設定している「境界」が融けていく感覚に僕は陥ります。このモデル自身のどこかにあるはずの欠点を予感します。 @yukiko419
2012-06-19 13:58:11@hijijikiki その境界の近辺で僕らは、正常・健常なるものとそれ以外のものを仕分けようとする(あるいは自分を仕分ける)と思いますが、それはどの程度「健全」なのでしょう。@yukiko419
2012-06-19 13:59:54@hijijikiki むしろ、誰もが等しく同じ「こころの全体像」を共有していて、状況によってそのなかで自分の意識の座が変わる。そういう性質をもったものとして「わたし」の居場所を把握することが必要なのではないかと感じました。 @yukiko419
2012-06-19 14:01:06@hijijikiki 身体的な障害に目を転じると、だれもが不慮の出来事で体の機能を損なうことがありうるし、病になれば行動に制約を受けてしまう。それは当然のことであり、身体の健常と障害の間にも明確な境界はないわけです。 @yukiko419
2012-06-19 14:04:01@hijijikiki ともあれ謂われる「差別」が社会的に形成される側面については、こうした視点から考えていくことは当然どなたかがやられていると思います。ただ、僕はヤノマミの生活や心理構造と、彼らが文明に接した時に起きる出来事にも注目したいところです。以上。 @yukiko419
2012-06-19 14:13:59@gmax_jp これ以降に頂いたリプへの返事は少し考えさせて下さい。仰るようなヤノマミと我々(富の蓄積と言語の使用の行く末)と、障害者・差別などの論題・論点は通底したところがあると思います。どうつなげるかムズイですが私にとっては大きな課題です。@yukiko419
2012-06-19 15:23:06大変遅くなりました。頂いたリプへのお返事です。(続く)RT @gmax_jp 連続モデル、ですがこれはヤノマミの心理構造に対してもった予感を適用して‥つまり我々の「こころ」の全体像はほとんど同じであると仮定して、正常と異常、健常と病的の境界は文化や社会が定めている‥
2012-07-16 22:10:47@gmax_jp 続1)「病的と形容される状態が実は内在する様々なこころの働きの発現のバリエーション」>精神疾患や発達障害などと、“正常な我々”との間の連続モデル的な考え方というお話しから、以前ご紹介した滝川一廣氏の著書『「こころ」の本質とは何か』を再読したところ、
2012-07-16 22:11:36