スリランカ在住僧侶とミャンマー在住仏教徒による、「瞑想」についてのつぶやきのまとめ

スリランカ在住の僧侶慈永祐士さんとミャンマー在住のニー仏さんによる「瞑想」についてのつぶやきを備忘録がわりにまとめました。
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ニー仏 @neetbuddhist

心を概念に留めておくのは私たちの習い性ですから、ほとんどの瞑想者が、ありのままの現実に心を留めておく代わりに、多くの場合において、概念に心を留めています。 ― Sayadaw U Jotika

2012-07-13 01:19:42
ニー仏 @neetbuddhist

心を概念ではなく、感覚に留めてください。呼吸というのは実のところ概念であり観念です。……ありのままの現実(パラマッタ)とは、あなたが直接に感じているものです。息を吸う時に何を感じていますか? その感覚、その感じはどこで起こっていますか? 感覚こそが現実なのです!―U Jotika

2012-07-13 01:24:01
ニー仏 @neetbuddhist

先生や友人なしに、導き手なしに私たちがこの道を歩き続けるのはとても難しいでしょう。私たちは多くの間違いを犯すでしょうし、何度も横道にそれるでしょうから。―Sayadaw U Jotika

2012-07-13 01:25:56
ニー仏 @neetbuddhist

(瞑想時は)非常に奇妙な感覚が起こることもあります。時々は、自分が誰だかもわからなくなるのです。というのも、自分が誰かということは、あなたが自分の心に創りだした、もう一つの観念ですから。しかしここに至るためには、非我の智慧を、深く洞察する必要があります。ー U Jotika

2012-07-14 18:30:21
ニー仏 @neetbuddhist

数えることなしに呼吸とともにいることができるなら、もうそれ以上数えないでください。数えることが、後には別の障害になるからです。それらは単に、数字に過ぎませんからね。私たちは数字を理解しようとしているのではありません。身体の感覚を、理解しようとしているのです。― U Jotika

2012-07-14 20:04:15
ニー仏 @neetbuddhist

初心者というのは、瞑想をはじめたばかりの人ではありません。初心者というのは、この集中の壁を乗り越えていない人のことを言うのです。ですから、あなたは長いこと瞑想をしてきたかも知れませんが、もし一定の段階を乗り越えていないなら、あなたはまだ初心者の段階なのです。― U Jotika

2012-07-14 21:50:34
ニー仏 @neetbuddhist

この現実の境界線で、あなたは色々な困難を経験するのです。あなたの心は行きつ戻りつする。私たちは通常の現実に慣れきっているからです。私たちはこの通常の現実において安心しているし、それを把捉しようと、そうし続けようと望んでいる。それを手放したくないのです。― U Jotika

2012-07-16 00:46:33
ニー仏 @neetbuddhist

私たちは何かより深いもの、「越境」した何かを経験したいのに、この通常の現実を乗り越えることはとても怖いのです。私たちはただそのために瞑想をしているのに、境界を乗り越えようとした瞬間に、一部の人たちは怖くなり、大きな不安を感じます。― Sayadaw U Jotika

2012-07-16 03:32:51
ニー仏 @neetbuddhist

『夜船閑話』が語ってるのは、鬱というより禅病だにゃー。いわゆる「自律神経失調症」の状態に近いのかな。禅病関係ない人にとっても、すごくいい本だと思う。たしか解説書もたくさん出てるはず。

2012-07-17 00:14:42
@jiei_yushi001

瞑想で、前世とか来世とか見えますかというのは、比較的定番な質問である。仏教においては、前世や来世についての記載が多いことから、比較的親和性が高いと考えることができるだろう。

2012-07-16 18:54:35
@jiei_yushi001

禅定中、瞑想中は、意識が覚醒していながら、いわゆる「夢」を見る。そしてそれは時として、実に具体的であり、例えば前世とか来世とかいう概念を導入したら、非常に整理しやすいものでもある。

2012-07-16 18:56:31
@jiei_yushi001

江原某という方が前世が中世の貴族云々などという前世判定をしたりされていたが、アレは私の場合は、前世来世があるなしに関わらず、信じることができない。なぜなら私が禅定中に見る影像が、人間であったことがないからだ。

2012-07-16 18:58:23
@jiei_yushi001

それが前世であったにせよ、脳の見せる幻であったにせよ、それがいったい何になるのかというと、全然意味はないのである。前世であったにせよ、前世も夢のようなものだということの証左に過ぎない。

2012-07-16 19:00:09
@jiei_yushi001

いずれにせよ、そのように見える影像は限りなく空たるものであって、周囲に見えた見えたと自慢する人があっても、それは、人よりもはっきりと夢の記憶があるという以上の意味はないのだと思うのだ。

2012-07-16 19:02:07
慈永祐士 @_jiei_yushi

@neetbuddhist 唯識は凄いです。清浄道論がテーラワーダの修行階梯の雄とするなら、大乗は多分、瑜伽論あたりになるんじゃないかなあ。

2012-07-18 00:02:06
慈永祐士 @_jiei_yushi

ニー仏@neetbuddhist さんのこれhttp://t.co/47BhEaz7に触発されたのでひとことふたこと。唯識はヴィジュニャプティ・マートラと云われ、御存知の通り一切が識 (ヴィジュニャーナ)に知らしめられたものという意をもつ。

2012-07-18 00:15:37
慈永祐士 @_jiei_yushi

識というのは釈尊の悟られた十二因縁のサイクルに入っていて、そこでは無明を破すると識を含めた一切の苦しみがドミノ式に消滅すると説かれている。而るにこの唯識は、一切の存在を識に還元するので、釈尊のアプローチとは違った斬新な切り口で涅槃に迫ったものとして捉えるのがよいと個人的には思う。

2012-07-18 00:19:09
慈永祐士 @_jiei_yushi

伝承では、唯識の教理は釈尊から継いだものとは直接的には語っておらず、弥勒菩薩より授かったこととなっている。そしてそれを継承したのが、無着・世親兄弟で、この世親が部派仏教出身だったことから、唯識の教理は、大乗・部派仏教双方を見渡せる、非常に重要な位置づけになっている。

2012-07-18 00:24:10
慈永祐士 @_jiei_yushi

ニー仏さんの記事で気になったのが、アーラヤ識はさておき、末那識は果たしてわれわれの認識外ということが可能かということである。

2012-07-18 00:28:35
慈永祐士 @_jiei_yushi

禅定に入ると、唯識で説く遍計所執性から依他起性証知への移行は、比較的容易い。禅定でなくても可能なことすらある。しかし時としてそれは失敗する。釈尊の説かれた名色(ナーマ・ルーパ)は存在形態の一様式だが、それにハマり切らないものがこびりついて存在していることに気づく。これが執着だ。

2012-07-18 00:32:49
慈永祐士 @_jiei_yushi

無我ということは、いろいろなところで解説され、時には自然科学的論証を導入して説明されている。しかしこの「説明」を超えた「体験」となると、一気に少なくなる。比較的目にするのが、狭義の「神秘体験」、つまり大いなる存在との一体感と呼ばれるものだが、それはあたらないと個人的には思う。

2012-07-18 00:35:16
慈永祐士 @_jiei_yushi

狭義の神秘体験の場合、「執着」が見えなくなっている、あるいは自我が肥大していることに気づかずにいることが多いのではないかというのが私見だ

2012-07-18 00:36:29
慈永祐士 @_jiei_yushi

さて、ヴィパッサナー瞑想の場合だが、この瞑想の肝は、観察にある。大乗瞑想の特徴として、サマタとヴィパッサナーを分けないというのがあるが、それはともかくとして、自らを観察する、この観察者は一体何なのかという素朴な疑問がある。

2012-07-18 00:39:21