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高岡 滋 @st7q
①「自己責任」なるものについて考えてきたが、「自己責任」というのは実に変な言葉。要するに、責任は自分にだけ返ってくるものということ。ある意味で「責任」という言葉を用いて、「責任」の概念を形骸化する役割も果たしている。
高岡 滋 @st7q
②「自己責任論」は、実は、個人に関する倫理概念などではない。政治的イデオロギーに満ちた洗脳用語。「自己責任論」とは「あなたに関することはあなたが責任を持ちなさい、国家はそれに責任を持ちません」というメッセージ。これを受け入れた途端、社会問題は個人問題に転化される。
高岡 滋 @st7q
③経営、雇用、労働、教育、医療、介護など、どの分野でも、ある問題が生じた時、個人的努力によって改善できる部分もあれば、国が政策化しないと改善できない部分もあるが、「自己責任」という言葉を国民にぶち込んでおくと、何か起こった時、国の責任から国民の目をそらさせることが出来る。
高岡 滋 @st7q
④「自己責任」論にさらされると、問題が起こった時に、私たちは国家の責任を考える前に、「自分達で何とかしなければ」という思考になる。しかし、本来、近代国家は国民と別のものではなく国民が作るはずのもの。そして、国民総体が、国民総体の生存と利益を考慮し、その国家の役割を決めるべきもの。
高岡 滋 @st7q
⑤劣悪な雇用・労働環境、低賃金による国民の困窮、中小企業の経営の困難は、すでに個別の努力で改善できるレベルを超えている。勝間和代の本がいくら売れても、総体としては、何も生み出しはしないのだ。彼女が肥え太るだけ。
高岡 滋 @st7q
⑥要するに、「自己責任」の意味は、倫理的概念ではなく、政治的メッセージであり、政府・財界のイデオロギー。それを国民に読み違えさせている。「自己責任」を言い出すと、問題が起きたとき、国民の目は支配者には向かわず、国民にだけ向く。受益者利益、消費税も同じこと。
高岡 滋 @st7q
⑦原発事故後、原発安全神話をふりまいた上で事故を引き起こした責任者(東電・政府)が事故にふさわしい責任をなんら取らず、放射線汚染から目をそらさせ、大丈夫論をふりまいていることが、「自己責任論」の意味を明確化している。健康障害の有無に関係なく、事故だけで財界・政界総辞職すべきもの。
高岡 滋 @st7q
⑧近代国家は、分業組織化されているだけに、それを維持する為には、国家機能が国民の福利をチェックし、維持していく機能は非常に重要。それを「後は野となれ山となれ」の財界とそれに追随する官僚・政治家に任せたことが、現在の破綻を生み出した。
高岡 滋 @st7q
⑨「小さな政府」の意味は、「大きい、小さい」にあるのではない。政府機能のうち財界に都合の良い政策以外は、国家は責任を最小化する、というメッセージ。それにより、財界は、生み出された巨大な富の存在にもかかわらず、国民を満足に食べさせていくことも出来ず、困窮者、自殺者を生み出してきた。
高岡 滋 @st7q
⑩「自己責任」論に対置する概念は、国民が政府に責任を取らせること、責任を取れる政府を自ら作っていくこと。私たちは、「自己責任」論の前に、近代国家の政府は国民自らが作っていくこと、そのために選挙制度が存在することを思い出すことだ。
高岡 滋 @st7q
⑪話題が少しそれるが、世の中を支配している国家も巨大企業も「組織」であることを忘れてはならない。組織に対峙するためには、組織も必要である。私たちは「組織ぎらい」となっているが、これは富のなせる業であるだけでなく、「自己責任論」の成果でもある。
高岡 滋 @st7q
⑫組織と個人というのは矛盾しうる。個人ならよく言えば自由、悪く言えば勝手なことができる。組織はそうはいかなくなるかもしれない。脱原発、反原発運動一つとっても色々な意見が出てくる。強制ではなく、自由な意見による葛藤と協力は必要で必然的なもの。私達は、このような中で力をつけていく。
高岡 滋 @st7q
⑬しかし、ネット時代の組織は、これまでの組織とは異なる。これまでにもまして、個人と既存の組織と流動的ネットワークが総合に入り乱れて、何かを形成していく。カオスが一つの形を取りうる。
高岡 滋 @st7q
⑭どのような形態をとるかどうかは別として、カオスのように見える多様な流れが「まとまり」を作ることは十分可能だと思う。しかし、そのためには、「強者」が作り出す意見の偏重ではなく、「個人」の自由な意見が、どれだけ出され、交換されていくかどうかにかかっていると思う。
高岡 滋 @st7q
⑮国民の考え方が多様であることをもってして、一定の方向性が出ることに疑問を持つ人もいるかもしれない。しかし、カネや権力を背景にして特別な力を民衆に作用することが出来る勢力が情報を通じて社会を支配する現状のほうがよっぽど危険。
高岡 滋 @st7q
⑯本当の意味で自ら考え、自らの道を決めることの出来る民衆は、いずれは自ずと正しい道を選べると思う。それには、無数の実践と反省の積み重ねになるだろうが、人間の多様性から考えてそれは当然のこと。
高岡 滋 @st7q
⑰私たちが負っている責任は、「自己責任」などよりももっと大きな責任。国民が、総体として、自らの国家に背負う責任。(重く、長い、地球的、歴史的「責任」も、その先にある)。
高岡 滋 @st7q
⑱こういうツイートでは、ついつい話が先に行ってしまう…政権を倒すと同時に、国民の声が届く政府に入れ替えることを考えなければならない。一部の強いものに頼るのではなく、国民全体が強くなるということ。それは、数の力という意味だけでなく、主体性を持ち、知識と智恵を生かせること。
高岡 滋 @st7q
⑲しかし、民主党の3年間を振り返らずとも、政府を入れ替えるのはとても大変なこと。既得権益集団は、政権が変わりそうになると、必ず、表に裏に汚い手を使って混乱を引き起こそうとする。そして、政策にかかわる官僚・専門家集団が既得権益集団に深く取り込まれているという事実がある。
高岡 滋 @st7q
⑳多数の国民が合意できる政権の柱を何にするかということ、その柱を実行させるための政治家、官僚、専門家、国民のコネクションおよび、国民によるチェックシステムなどを考えなければならない。こういうことは、どうせその通りにはならないにしても、取らぬ狸の思考訓練をしておくことは意味がある。

ここまでは、下から眺めた「自己責任」。ここからは、上から眺めた「自己責任」

高岡 滋 @st7q
①昨日は、「自己責任」なるものを下から眺めたが、今度は上から眺めてみる。「自己責任」は、権力者にとって非常に都合の良い言葉である。権力者は、民衆一人一人の「責任」と比較すれば、はるかに大きい「社会的責任」を課せられており、「自己責任」なる言葉は彼らにはふさわしくない。
高岡 滋 @st7q
②ところが、権力者は「自己責任」レトリックによって、その「社会的責任」を問われなくなった。彼らは自己の責任を果たす代わりに、民衆にレトリックを提供する。このような安易さは、能力の低下をもたらす。ますます、彼らは社会に対して責任のとることのできない存在となっていく。
高岡 滋 @st7q
③本来、言葉による表現は「手段」である。しかし、官僚たちは、手段としてではなく、ごまかしという「目的」そのものために言葉を操るようになる。
高岡 滋 @st7q
④社会や組織のトップの、(表向きの言葉ではなく)潜在意識を含めた(本音の)意識というものは、好むと好まざるにかかわらず、その構成員の意識及び潜在意識に強い影響を与えていく。こうして、社会全体の責任能力は低下していく。
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コメント

@rbmio 2012年7月21日
主義主張も方法論も明確ではなかった民主党が政権を取れたことを完全無視してませんかねこれ。
iga9984 @iga9984 2012年7月21日
また「キトクケンエキシュウダンガ~」の陰謀論に走った奴がひとり。
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