直違の旗下

ついったあ(なりきり)武将、長束正家が制作。 丹羽家にいた頃の想い語りだ。
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なつか @ntk1600

約束をしていた「丹羽家に臣従していた頃」の話を、つらつらとしようと思う。長くなるかも知れん。煩わしく思う者は、たぐのみゅうと等で対処してくれ。此方を #直違の旗下 付けて進めて行く。宜しく。

2012-07-19 20:31:30
なつか @ntk1600

今回は、俺の記憶と、丹羽家の公式の記録に残っている記述を元に、話していこうと思う。 #直違の旗下

2012-07-19 20:33:10
なつか @ntk1600

まず、丹羽家の記録に、俺は『近江の生まれで、英才秀逸にして将師としての器量や勇謀は常人のものではなかった。その上、天下無双の算術の使い手である』と、記して頂いている。ありがたいことだ。…少しくすぐったいな(笑) #直違の旗下

2012-07-19 20:36:55
なつか @ntk1600

まあ、そんな俺でも最初から高い石高で召し抱えられたわけでは無くてな。今になって考えると、…正直少ない禄だったなァ。 だが、一人身で、食うに困る程の少なさでもない。 それに、長秀様という素晴らしい方にお仕え出来るんだ。不満は無かったねェ。 #直違の旗下

2012-07-19 20:40:34
なつか @ntk1600

戦の時も、常に殿のお傍に従っていた。戦での働きについては『その戦功を謀才は、比類なく将の器であった』と、書いて頂いている。面映ゆいが…やはり誇らしい。 #直違の旗下

2012-07-19 20:44:19
なつか @ntk1600

天正六年。鍋丸様が七つの時だ。今まで一千石の身だった俺を、長秀様は急に一万石に加増して下さった。同時に、鍋丸様の補佐役に任命された。 #直違の旗下

2012-07-19 20:49:02
なつか @ntk1600

その時、俺は十六歳。 他の丹羽家臣の方々は、「若造のくせに生意気な」とお思いになったことだろうな…。実際、そういう雰囲気は感じとっていた。 だがそれでも真面目に、腐ることなく、鍋丸様の補佐を務めた。殿が、選んで下さったんだ。俺を。 期待にはお応えせねばならん。 #直違の旗下

2012-07-19 20:53:26
なつか @ntk1600

更に時は進んで、天正十年の五月。四国遠征の準備をしてた信孝様・長秀様と共に、俺は大坂に居た。船を待っていたんだ。其処に、あの知らせが。六月…ピンと来る者も多かろう。本能寺の一件だ。 #直違の旗下

2012-07-19 20:59:58
なつか @ntk1600

長秀様は明智殿を討つべく、兵を整えた。俺に大坂を守るよう御命じになったんだが……途中で俺は、ある話を耳にした。「津田信澄殿が、信孝様・長秀様の不在を狙って、背後をついて襲いかかる計略を練っている」という、恐ろしい話だ。 #直違の旗下

2012-07-19 21:06:33
なつか @ntk1600

信澄殿は、大殿の甥にあたる御方だ。明智殿の御息女を、正室に迎えている。……まあ、とにかく俺は、それを長秀様に知らせた。長秀様は信孝様にお伺いを立て、信澄殿を討つことを決心なさった。………。この話は、…あまり気が進まんな…。 #直違の旗下

2012-07-19 21:10:56
なつか @ntk1600

と、いうのは、………非常に息が苦しくなる話だが……信澄殿が“本当に”明智方と通じていたという、確固たる証拠は……無くてな。俺の記憶によると。 丹羽家の公式記録では、このように書かれているが……。 ……。 #直違の旗下

2012-07-19 21:14:01
なつか @ntk1600

………ともかく、信澄殿を、討ち果たした…。討ち取ったのは上田さんだ。上田さんは後に茶人として名を馳せるが、やはり気質は武人。見事な腕だった。 ……この一件、長秀様は如何様にお考えなのか………。俺には分からんな。 #直違の旗下

2012-07-19 21:17:51
なつか @ntk1600

この働きがあったから…なのだろうか。その後の清州での会議で、長秀様は若狭国を安堵、佐和山を離れることになったが、近江高島を得ることとなった。……得ることになった、ん、だが…。 #直違の旗下

2012-07-19 21:21:13
なつか @ntk1600

…近江高島、そして大溝城は、信澄殿の旧領だ。…うん。 #直違の旗下

2012-07-19 21:23:16
なつか @ntk1600

そして清州会議の翌年。俺は二十一歳。柴田殿と…ええと、羽柴様(と、此処では言わせてくれ)の戦が勃発。世に言う賤ヶ岳の戦いだ。この戦で、長重様は初陣となる。 #直違の旗下

2012-07-19 21:27:08
なつか @ntk1600

溝口さん、村上さん、そして俺の三人が、長重様の後見として七千の兵を率いた。 北ノ庄に攻め込んだ時、俺は柴田国丸(勝敏)殿を捕縛。功績により、鯖江城3万5千石を賜った。 #直違の旗下

2012-07-19 21:32:42
なつか @ntk1600

戦の後、長秀様は勝家殿の北ノ庄城を居城となさった。 …が、病が重くなられてなあ。 長久手の戦でも、羽柴様に力を貸す事になったが、戦わない内に和睦が進み、早々に越前へお帰りになったりしていた。 #直違の旗下

2012-07-19 21:38:53
なつか @ntk1600

…天正十三年。殿の、遺書の、草稿を書いた。 #直違の旗下

2012-07-19 21:42:13
なつか @ntk1600

まだ幼き長重様を頼む、と、羽柴様に宛てた内容だ。俺は此れを、成田さんと共に羽柴様に届けに行ったっけなあ。 #直違の旗下

2012-07-19 21:44:58
なつか @ntk1600

四月に、殿がお亡くなりになる。 七月に、羽柴様が関白に就任なさる。 その八月頃…だっけか。丹羽家重臣らが、長重様を唆して羽柴様を討とうとしているのではないか、という疑いがかけられた。 #直違の旗下

2012-07-19 21:48:28
なつか @ntk1600

長重様は未だ十四歳。 俺は長秀様の弟君である秀重様と共に、その謀略を練っていた者たちを諌めた。……流石に、ちと家中に居辛くなったなァ(苦笑)  …だが、俺は長秀様から若君を御守りすることを命じられている。自分がどんな状況に置かれても、若君は守りたかった。 #直違の旗下

2012-07-19 21:53:06
なつか @ntk1600

で、結局その嫌疑で所領も削られて。丹羽家臣たちも、次第に羽柴様の元に流れて行ったりしてな…。無論、俺も誘われたさ。断固拒否!したがな!(笑)  ………で、流石にお怒りになった羽柴様に呼び出された(苦笑) #直違の旗下

2012-07-19 21:56:15
なつか @ntk1600

しかし、まあ、俺は腹決めてたから。丹羽家の臣として、堂々たる態度で、羽柴様の前で申し上げた。 #直違の旗下

2012-07-19 21:58:20
なつか @ntk1600

長重様に謀反の心が無い旨を真摯に説明し、「長秀様が御存命であれば、私は何の憂いもなく、貴方様の下にお仕え出来たでしょう。しかし、若様は未だ十四…。所領も削られ、臣たちは他家へ心移りしております。そのような状況で、若を見捨て、貴方様の元へ参るわけにはいきません」 #直違の旗下

2012-07-19 22:02:20
なつか @ntk1600

「始めに申しました通り、若君御自身には、今回何も疑いを掛けられる道理が御座いません。ですので、私は、たとえ此処で貴方に命を奪われようとも、貴方にお仕えするわけには参りません」此処まで一息で………というのは冗談だが(笑)、羽柴様に伝わるよう、切々と、話した。 #直違の旗下

2012-07-19 22:07:10