茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第670回「柔道が、JUDOになって得たもの失ったもの」

脳科学者・茂木健一郎さんの7月30日の連続ツイート。 本日は、昨日の海老沼選手の闘いを見ながら、思ったこと。
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茂木健一郎 @kenichiromogi

しゅりんくっ! ぷれいりーどっぐくん、おはよう!

2012-07-30 05:32:27
茂木健一郎 @kenichiromogi

猛暑の東京から、連続ツイート第670回をお届けします。文章は、その場で即興で書いています。本日は、昨日の海老沼選手の闘いを見ながら、思ったこと。

2012-07-30 07:49:40
茂木健一郎 @kenichiromogi

じJ(1)昨日の海老沼選手の柔道の闘いぶりを見ていて、思ったことがある。審判の判定うんぬんの前に、オリンピックや世界選手権におけるJUDOは、もはや日本の中で嘉納治五郎が発展させた柔道とは異質の競技になってしまっていること。そのことの背景について、今朝は考えてみたい。

2012-07-30 07:51:16
茂木健一郎 @kenichiromogi

じJ(2)柔道は、単なるスポーツではなく、「道」である。だから、対戦の時も礼に始まり礼に終わる。勝ち負けだけでなく、柔道を通して人格を陶冶し、人生の哲学を深めることを目指す。これは、国際的には通用しない日本だけの「こだわり」かと言えば、そんなことはない。

2012-07-30 07:52:55
茂木健一郎 @kenichiromogi

じJ(3)高校一年の時にお世話になったカナダのバンクーバーのホームステイの家族の父親が、日系のJim Kojima氏で、Kojima氏はカナダの柔道界の重鎮であった。経営者として会社を切り盛りする一方で、柔道の振興に努め、オリンピックを初めとする国際試合の審判をしていた。

2012-07-30 07:54:25
茂木健一郎 @kenichiromogi

じJ(4)Jim Kojima氏や、氏を通して知ったカナダの柔道家たちは、みな嘉納治五郎さんが始めた講道館柔道の精神に、強く惹きつけられていた。単に、身体の力をつけたり、強くなって相手を倒すことを目的とするのではない。柔道を通して精神を陶冶するという哲学に魅了されていたのである。

2012-07-30 07:56:00
茂木健一郎 @kenichiromogi

じJ(5)国際化に伴って、柔道は変質していった。たとえば、柔道着。カラー柔道着が導入されるとき、日本は伝統的美意識の視点から猛反対したはずだが、結局は押し切られた。もう一つ、「無差別級」がなくなったことも、日本の柔道関係者にとっては痛恨の一事だったのではないか。

2012-07-30 07:57:25
茂木健一郎 @kenichiromogi

じJ(6)「柔よく剛を制す」という。身体の小さいものが、大きいものを倒してこそ、柔道の醍醐味がある。そもそも、人生は体重別にはできていない。柔道も、その元となった柔術も、武士の鍛錬に発したが、戦場では、体重別で闘いが行われるわけではない。体重別になることで、柔道の本質が変わった。

2012-07-30 07:59:17
茂木健一郎 @kenichiromogi

じJ(7)柔道は、日本の警察における必修科目となることで広がっていったとされる。警察官が職務に携わる際に、犯人が体重別で立ち向かってくるわけではない。このように考えてくると、体重別で闘っている現在のJUDOのあり方が、その本来の趣旨、精神からいかにずれているかわかる。

2012-07-30 08:01:35
茂木健一郎 @kenichiromogi

じJ(8)オリンピック種目化が時々話題になる相撲。もし採用されたら、体重別でメダルを争うことになるのだろう。日本の大相撲には、体重別などもちろんない。小兵力士が巨漢力士を倒すからこそ、喝采を浴びる。体重別なき真剣勝負を身近で見れる喜びは、相撲がSUMOになれば失われるのだろう。

2012-07-30 08:03:59
茂木健一郎 @kenichiromogi

じJ(9)オリンピックは、ヨーロッパ貴族のpastime(気晴らし)を背景にしており、だからこそ(今は削除された)アマチュア規定もあった。体重別は彼らのfairnessの観念を満足するかもしれないが、日本人にとってはそうではない。柔道がJUDOになっても、原点を忘れないでいたい。

2012-07-30 08:05:40
茂木健一郎 @kenichiromogi

以上、連続ツイート670回「柔道が、JUDOになって得たもの失ったもの」でした。

2012-07-30 08:06:05