山地牧畜民も、結構な高さまでは登っている。スイスでも1500mくらい登ったりするし、チベットでもそのくらい登る。略陽の辺りでは、そうした山を北に望もうとすると、数百km離れてしまう。恐らく、羌や氐が登ったのは東の隴山だ
2012-07-31 19:57:09また、彼らの夏の放牧地は、何も一つの部族だけが使うわけではない。山地の中でも放牧に適した場所まで、その山の周辺から集まってくるのだ。そうした場所で交易が行われる。例えば六盤山脈は、山脈の東西から牧畜民が集まってきたはずだ。だから、安定の反乱と隴右の反乱が連動するのは自然だ
2012-07-31 20:04:46さて、羌や氐が、夏の間は家畜を高地へ連れて行くとすると、彼らは夏の間に戦争をするのが難しいということだ。男どもが放牧地へ向かわず、戦地へ行ってしまえば、家畜は夏を越すのが難しいからだ
2012-07-31 20:09:27夏侯淵が韓遂らを討伐した時、季節は春になろうとしていた頃であり、羌や氐の家畜は冬の村に放牧されていただろう。だからこそ韓遂に従う余裕があった。そうしたことを考えると、韓遂としては、夏が来る前に夏侯淵と決着を付けたかったはずだ
2012-07-31 20:11:00姜維が牛頭に出たのも、秋から冬になろうとしていた頃である。羌胡との連携を企図するならば、こうした季節に出兵するのは至極当然のことである。羌胡の風俗を熟知しているからこそ、あの時期の出兵になったのである
2012-07-31 20:15:24姜維は大軍を預かるようになると、羌胡との連動そのものより、自分の戦略を優先して攻勢を掛けた。しかし、頭には羌胡との連動があったはずであるから、彼の作戦は常に冬にまたがるものであったのだろう。事実、彼の作戦が成功した時は、彼は冬まで隴右に出ていた。夏や秋に退くのは負けた時だけである
2012-07-31 20:20:11姜維が最後に攻勢をかけた侯和の戦いは、魏蜀のパワーバランスが崩れた後だったため、姜維も羌胡に頼らざるを得ない状況だった。それを示しているのが、彼が侯和に出た時期である。彼が敗北したのは冬であり、羌胡が夏の放牧から戻ってきた時期であった
2012-07-31 20:21:34移牧と言っても、一気に夏の放牧地まで移動するわけではなく、標高を少しずつ高くしながら、何ヶ月か(家畜や、その年の草の状態による)掛けて登り切る。
2012-07-31 21:20:25西アジアの羊の牧畜においては、家畜の出産は冬季に行われるよう調整される。それがいつであろうと、管理の利便性から、出産時期は群れ全体で合わせられるだろうし、移牧が行われていれば冬季になるよう調整されるだろう。
2012-07-31 22:05:33冬は麓の厩舎、あるいは放牧地において家畜を育て、その固体を増やすための出産、更には新生子の管理といった作業が牧畜民に加わる。これらの担い手は、戦争や労役がなければ部族全体であっただろうが、そうでなければ女や子供、老人たちだっただろう
2012-07-31 22:22:29「牧夫の誕生」という本は、西アジアにおける家畜化の過程が主であって、牧畜の、特に移牧の実践的な手法についてはあまり書かれていなさそうだ。別の本も買わなきゃならないな
2012-08-01 11:48:12牧民は、母子間のインプリンティングを確実にするための出産介助、哺乳介助を通じ、家畜の個体を、その母と関連付けて覚えているようだ。それも、群全体の個体について、数百頭という数を。こうした作業と、それで培われた能力が、何か軍事的なことに生かされないだろうか?
2012-08-01 14:30:55