けいおん!を巡って

批評に無謬性は存在しない というトゥギャりの続きです http://togetter.com/li/349218
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@hallucinyan

まず、大塚英志が「新井素子は身体が記号的であるアニメ的世界で「私」や「死」を描いている」と述べている。これは単純な事実ですね。そしてけいおん!においては京アニのキャラデザが女子高生の等身に近く設計され、またアニメーション的運動性においてもそのむちむちとした身体性が強調された。

2012-08-02 19:34:18
@hallucinyan

それゆえにけいおん!の「身体」は「リアリスティック(写生的)」である。しかし彼女らにおいては近代的成熟は忌避されておりモラトリアムを生きている。もちろん死も存在しない。それを剔抉したのが『蛸壺屋』である、という論旨なのですが。

2012-08-02 19:36:57
@hallucinyan

「京都アニメーションはこの作品のヒット以降、『らき☆すた』『けいおん!』といった空気系作品のアニメ化を積極的に行っている」ってウィキペディアにありますけど、大衆が立ち上げた空間においてこう言われているのなら、それを論拠に語ってもいいと思いますね。

2012-08-02 20:11:42
@hallucinyan

あるいはネットの言説空間において2chの「日常系ってつまらなくね?」といったスレを逐一観察すれば必ず日常系として「けいおん!」が代表格として扱われているという現状認識は重要でしょう

2012-08-02 20:14:24
@hallucinyan

まぁ、結論として言えば、漫画研究者のプロにマンガ論で立ち向かうというのは大変なことでしたが、けいおん!が日常系の代表格として大衆に認められているのは事実だし、そこには近代的制度としての内面がないし、またけいおん!は身体がリアリスティック(写生的)というのもそうだと思っています。

2012-08-02 20:18:36
@hallucinyan

またけいおん!の内面のなさについては、ハイデガーの現存在分析が手がかりになるでしょう。頽落した現存在は死を直視しない。「空談」「好奇心」「曖昧性」が頽落した現存在の諸特徴である。けいおんのキャラはおしゃべりで死を隠蔽し、好奇心で動き、自らの死を知らない。

2012-08-02 20:01:28
@hallucinyan

けいおん!は理想化された頽落した現存在です。現実の人間は死を忘れていると言っても当然それを思い出すし悩むでしょう。その外傷性がけいおん!においてはクリーンに除去されているのです。

2012-08-02 20:36:16
@hallucinyan

しかし、ハイデガーとニーチェには差異がある。ハイデガーは「死に向かえ!それが精神を目覚めさせる根本規定だ!」と述べた。これは重い立場だ。たしかにニーチェの運命愛もそのように読み解くことができる。しかし、ニーチェは「重みに耐える駱駝」から「軽やかな幼子」になれと述べた。

2012-08-02 20:40:24
@hallucinyan

ドゥルーズは「肯定することは、存在するものを請け負うこと、引き受けることではなく、生きているものを解放し、その重荷を降ろすことことである。肯定すること、それは軽くすることである」と述べている。平沢唯のゆるふわさはドゥルーズのいう「肯定」「軽くすること」であるだろう。

2012-08-02 20:45:54