作曲と演奏

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Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

ところでデレク・ベイリーの「インプロヴィゼーション」て本によると、ある種のクラシック音楽の最大の失敗は、音楽を作ることとそれを再現すること(作曲家と演奏家)を全く別のものとして分けたうえで、前者にのみ創造性を認めたことにあるらしい。

2012-08-02 00:18:14
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

そうなると楽器っていうのは後者(演奏家)の側にあるから、楽器という存在は全く創造性をもたないとみなされることもあるらしい。これ結構すごい話というか、そもそも楽譜って実体のない音楽を客体化するためのノートに過ぎなかったはずなのに、むしろ楽器じゃなくて楽譜が創造的とみなされるという。

2012-08-02 00:27:07
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

まあでもこれはある程度自明のことなんだろうけど、音楽におけるこの様態を絵画に置き換えてみると、例えばイラストレーターで作った絵を、アシスタントを大量に使って「正確に」キャンバスに再現する作業としてイメージできそう。

2012-08-02 00:34:16
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

つまり抽象的に設計されたものから実体をもつものを再現するってことだけど、これを絵画とか音楽じゃなくて現代美術全般のこととしても言えて、つまりまずコンセプトがあって、作品とはなるべくクリアにそのコンセプトを再現したものであるべきというわけ。

2012-08-02 00:42:31
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

音楽の場合はもちろん、一枚の楽譜をもとに演奏することで何度でも再現しないとならない。美術の場合、基本的に作品はユニークなので、抽象的な設計図の部分それ自体が作品で良いじゃん、ということにしばしばなる。いわゆるコンセプチュアルアート。

2012-08-02 00:58:03
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

ベイリーはそもそも「即興」ということについて考えているから、クラシック的な設計図と再現されたものの二層構造に批判的なんだけど、コンセプチュアルアートがクラシックとある種の相同性をもっているとすると、「即興」をコンセプトとしてたてること自体がやはりクラシック的なものの範疇にある。

2012-08-02 01:04:17
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

というのは正確じゃないか。音楽は繰り返し再現するもの、美術はユニークなものという違いは考慮しないといけないけど、いずれにせよ美術の世界で即興というテーマはだいぶ後景にしりぞいてる。これが絵画、つまりライブペインティングの問題になるとさらにややこしい。

2012-08-02 01:10:35
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

ケージはやっぱり音楽というよりコンセプチュアルアートなわけで、チャンス(偶然)の概念と即興は相容れない。僕としてはケージをグラフィティ的に考えてみたいのだけどなぁ。

2012-08-02 01:16:20
齋木克裕 @ka2saiki

記譜の歴史を知らないので、推測でしかないけど、譜面の始まりって楽曲が複雑になって、それを再演するために記録する必要がでてきたと言うことなのかな?あるいは教会音楽など別の場所で演奏する必要性が高まったとか。@EnricoLetter

2012-08-02 01:20:36
齋木克裕 @ka2saiki

記譜法が発展した結果、楽譜がコンセプトというかイデアなものとして見いだされるようになったとか。 @EnricoLetter

2012-08-02 01:23:19
齋木克裕 @ka2saiki

↓「譜面がイデア的なものとして見いだされた。」の間違い

2012-08-02 01:24:06
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

@ka2saiki 譜面が誕生した経緯はちょっとわからないのですが、ベイリーによると少なくとも結果的には、演奏家に対して作曲家が「不可侵の」「神的存在」になっていったということは、一部のクラシック音楽については事実のようです。

2012-08-02 01:45:28
齋木克裕 @ka2saiki

ウォルター・ペイターの「すべて芸術は絶えず音楽の状態に憧れる。」というのも、そういう意味では記譜法の完成されたクラシック音楽を前提にしている。楽譜をイデア的なものと捉えて、楽譜の優位を説いているということかな。ペイターがプラトンの研究をしていたことを考えると納得がいく。

2012-08-02 01:49:25
齋木克裕 @ka2saiki

@EnricoLetter デレク・ベイリーをはじめとするインプロの音楽は好きで、ベイリーが作曲/演奏を転倒したのも評価するけれど、インプロって演奏が上手くなればなるほど、別の意味で神的存在になってしまうよね。

2012-08-02 02:16:18
齋木克裕 @ka2saiki

即興演奏も作曲をしてそのフィードバックをリアルタイムに処理できるということだろうから、やっぱり作曲というより記譜ということなんだろうな。。その成立の経緯はさておき、曲を再演可能なかたちで記すということが、演奏家と作曲家の分業を生み出し、作曲家の優位を生み出したということかな。

2012-08-02 03:05:55
齋木克裕 @ka2saiki

記譜と演奏のことをデリダと繋げて書いている人って誰かいるのかな?というか、デリダ自身が言ってそうだな。

2012-08-02 03:08:51
齋木克裕 @ka2saiki

そう考えると、インプロヴィゼーションは記譜にたいする演奏(音そのもの)の優位ではなくて、音の差延化の現れと捉えるべきということか。

2012-08-02 03:16:42
Shoryu Itazu 板津 昇龍 @shoryu_it

@EnricoLetter 演奏は「2次的創造行為」という考えもあります。また作曲と演奏という行為は別ですが、およそ20世紀前半まで作曲家は演奏家も兼ねていました。モーツァルトもショパンもすぐれた演奏家でもありました。

2012-08-02 03:23:58
齋木克裕 @ka2saiki

話は変わるが、音楽で美術のミニマリズムに対応するのは、ミニマル・ミュージックではなく、ジョン・ケージの『4分33秒』のような作品だと思う。彼はいろんな作品を作っているので全てがそうであるわけではないが、この作品では音楽を成立させる時間の枠のリテラルな露出が狙われている。

2012-08-02 03:31:48
齋木克裕 @ka2saiki

からっぽの箱としての客体がミニマリズムだとしたら、からっぽの箱としての時間が『4分33秒』。なんと演劇的な音楽。

2012-08-02 03:39:26
Shoryu Itazu 板津 昇龍 @shoryu_it

@EnricoLetter さらに、日本語では「作曲」といいますが、それに相当する欧米の語彙はコンポジション=「構成」になります。それがインプロヴィゼーションやチャンスミュージック(アート)を解釈する時に文脈上関係してくるのかな、と思います。ややこしい問題ですが...

2012-08-02 03:52:04
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

@ka2saiki おはようございます。おそらく作曲/演奏を転倒したというよりも、その二分法自体を無効化した「その場でつくること=その場で演奏すること」という視点なのだと思います。あとインプロ自体が技術的に洗練され、定式化されていくジレンマについても彼の本で言及されています。

2012-08-02 10:07:34
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

@shoryu_it「2次的創作行為」は字面が「2次創作」と似ていて面白いです。モーツァルトが優れた演奏家だったのはその通り。デイリーの話は主に20世紀以降の一部の保守的クラシック音楽の状況についてだと推測します。あと「作曲」と「構成」はたしかにニュアンスがかなり異なりますね。

2012-08-02 10:13:05
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

フリーインプロヴィゼーションとイディオムインプロヴィゼーションの関係に重なりますね。アルゴリズムは後者?@yuusukekarasawa: モードは、フリーの滅茶苦茶さとは異なり、古代の旋法を採用することによって、一定の秩序の中に収まる多様性と偶然性を追求するもの。アルゴリズム建

2012-08-02 12:03:35
柄沢祐輔 @yuusukekarasawa

後者よりの概念ですね。RT@EnricoLetter フリーインプロヴィゼーションとイディオムインプロヴィゼーションの関係に重なりますね。アルゴリズムは後者?@yuusukekarasawa: モードは、フリーの滅茶苦茶さとは異なり、一定の秩序の中に収まる多様性と偶然性を追求する

2012-08-02 12:12:11